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[ヒロシマドキュメント 1945年] 11月10日 亡き妻へ 手紙風の手記

 1945年11月10日。広島文理科大(現広島大)助教授の小倉豊文さん(96年に96歳で死去)は、原爆で亡くなった妻文代さん=当時(37)=に宛てた手紙風の手記を、断続的にノートにつづった。3年後に被爆体験記として出版される「絶後の記録」の「第一信」の日付がこの日だ。

 小倉さんは、今の広島県府中町と広島市南区の間に架かる新大洲橋のたもとで被爆。「ものすごく巨大な、空をきるような鋭い閃光(せんこう)」(以下、中公文庫版)を上空に感じた。「まるで巨大な松茸(まつたけ)のオバケのよう」な雲を目撃し、「息の根を一挙にとめられたような猛烈な風圧」を食らった。

 翌8月7日夜、救護所の府中国民学校(現府中小)で文代さんと「奇跡的」に再会する。県北に学童疎開した長女のために凍傷の薬を買おうと、舟入幸町(現中区)の自宅から八丁堀に出かけ、福屋百貨店前で閃光を浴びていた。ただ、やけどは比較的軽いと感じた。「この第一印象が最後までお前のいたでを俺に軽視させることになってしまったのだ」

 17日、地御前村(現廿日市市)の親戚宅で療養していた文代さんの容体悪化に気付く。高熱や鼻血、下痢を発症。集まっていた子どもたち3人と共に、19日に見送った。通夜で、自身が好んだ宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を唱和した。

 小倉さんは「被爆者として死んだ妻に対して、その死の前後の事実を報告せずにはいられぬ」気持ちにとらわれたと明かしている。「文代―」と繰り返しながら、約1年かけて惨状を克明に記録し、全13信になった。

 文代さんが薬を届けようとした長女和子さんは先月、90歳で亡くなった。その長女の三浦和恵さん(59)=千葉県船橋市=は「祖父母や母の思いを知る家族の大切な記録。少しでも被爆について知ってほしくて」。お別れの会では「雨ニモマケズ」を参列者と唱え、母たちがしてきたように「絶後の記録」を配った。(山下美波)

(2024年11月10日朝刊掲載)

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