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連載・特集

回天初出撃80年 <下> 継承

特攻の覚悟 胸に迫る

二度と起こさぬ決意 新た

 戦死した回天の搭乗員や整備員たちの名と出身地を刻んだ銘碑145基が並ぶ。周南市大津島の回天記念館。10月19日、20人余りが碑を拭き、墨を含ませた筆を彫り込みに重ねた。作業は桜ケ丘高(同市)の1963年卒業生による年1回のボランティア。毎年11月に開かれる追悼式を前に、15年ほど続けている。

 世話人代表の多田功さん(80)=広島市東区=は、参加した同高の生徒9人に語った。館長だった小川宣(のぶる)さん(2011年に80歳で死去)はかつて同高で教壇に立ち、恩師だったこと。色あせた銘碑への墨入れが間に合わず、式に来た遺族に申し訳なさを感じた話を晩年に打ち明けられたこと―。「何とかお手伝いしようと思った」と経緯を説いた。

 生徒は作業前に館内展示を見学し、証言ビデオを視聴した。初めて島を訪れた2年久田美桜さん(16)は「知ってはいたけど、回天の特攻は遠い出来事と思っていた。どうにかして伝えていかないと」。昨年に続き参加した3年東瀬(あずせ)陽大さん(18)は「東京や大阪…。これほど全国の人が回天に乗っていたのだとあらためて気付かされた」。参加者は、1時間ほどかけて墨入れを済ませた。

 回天顕彰会(周南市)が催す追悼式。初出撃から80年となる今年は10日午後0時半に始める。当日は午前11時から、2年がかりで製作したドキュメンタリー映画を初上映する。元搭乗員たちがつくった全国回天会の初代会長の小灘利春さん(06年に83歳で死去)に焦点を当てた内容だ。

 小灘さんは戦後、多くの手記を執筆した。戦死者の情報収集にも努めた。三女の伊藤伸子さん(65)=金沢市=は「父は回天を思い出話のように話すことはなかった。ただ、出撃した仲間の思いを伝えることが、生き残った自分の使命と感じていた」と振り返る。

 伊藤さんは、病床の言葉やメモから出撃を前に死を覚悟した父の気持ちを知った。「愛する家族や古里、それにつながる人々を救うために自らの命を使う。それが、父が求めた回天で死ぬ理由だったようだ」。史実を後世に伝えようとした父の意思も胸に、10日の追悼式に初めて参列する。

 多田さんたち卒業生は今年で墨入れボランティアに一区切りをつける。日程の調整など主催者としての役目を来年から母校に託す。「もう80歳。続けたくても体力的に厳しくなった」と多田さん。来年からは「自発的な協力」の形で関わる。

 ボランティアに初めて参加した2年森岡梓さん(16)は「来年もここに来たい」と力を込める。亡き曽祖母は看護師。原爆投下直後の広島を奔走した話を父に教わり、戦争を身近に考える必要性を以前から感じていた。この日、家族への感謝と特攻の覚悟を搭乗員が述べた録音を聞き、胸が苦しくなったという。「自分たちは平和に慣れている。でも過去の戦争を忘れちゃいけない。二度と起こさないとの決意を伝えていくべきだと思った」(井上龍太郎)

(2024年11月9日朝刊掲載)

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