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[被団協に寄せて ノーベル平和賞] ヒロシマ史家 宇吹暁さん 先人の熱量 運動導く

受賞後に何をすべきか

  ≪10月11日に日本被団協へのノーベル平和賞授与が発表された翌日、ある人の墓前に報告した。1956年の広島県被団協の結成に奔走し、日本被団協の初代事務局長を務めた藤居平一さん(96年に80歳で死去)。自身は東京にいて被爆を免れたが、父と妹を原爆に奪われた。≫

 受賞決定のニュースを見て、「やっとか」という思いが湧いた。何度も取り沙汰されてきましたから。ノーベル賞委員会はそれほど、今の世界に危機感を持っているんでしょうね。核兵器が使われかねない、と。

 被団協が評価されたのは良かったが、受賞をどう受け止めればいいのか分からなかった。反射的に「藤居さんならどう言われるだろう」と、広島市内のお墓を訪ねたんです。

 ≪膨大な原爆資料を研究してきた。広島大原爆放射能医学研究所(現原爆放射線医科学研究所)の付属原爆被災学術資料センターに勤めていた81年から、藤居さんの聞き取りに打ち込んだ。≫

 彼は家業の銘木店を再建し、巨額の私費を投じて被爆者救援と原水爆禁止運動に尽くした。身内を奪われた、許せん、という気持ちは持っておられました。でも「(米国を)抱いちゃらんといけん」という独特な言葉も使われた。駄目なところを受け止め、教えてあげなければいけない、という意味でしょう。包容力のある人でした。

 藤居さんを語る上で、民生委員だったことは外せないポイント。生活に困っている人を助ける仕事ですよね。当時の広島では対象者が皆、原爆被害者。その「まどうてくれ(元通りにしてくれ)」という気持ちをくみ取り、原水禁運動につないでいった人なんです。

 政治的センスもすごかった。社会に影響力のある発言ができるよう組織を築き、母校のアカシア会(広島大付属中・高同窓会)や早稲田大ゆかりの官僚たちにも働きかけた。福祉のまなざしを備えた社会運動家でした。

 ≪自身は今も集めてきた資料に向き合い、ネット上のサイト「ヒロシマ遺文」で発信を続ける。≫

 藤居さんも平和賞決定を「良かった」とは言うでしょう。ただ私が「すばらしい」と言い回っていたら、絶対に𠮟られます。「ばかたれ。受賞後に何をするのかが問題じゃろう」と。いつも次の事を考える人だったから。

 今、広島からそういう熱量が消えていっている。今後が心配です。被団協の歴史に学ばないと。受賞決定後は私自身も何をすべきか、そればかり考えています。歴史屋ですから、気になるのは資料の散逸が進んでいること。来年の被爆80年を一つの区切りに何か動きが出てくれば、と思っています。(聞き手は編集委員・田中美千子)

    ◇

 結成から68年。原爆被害への国の償いと核兵器廃絶を訴え続けてきた日本被団協のノーベル平和賞受賞をどうみるか。広島の識者や、運動を支えてきた人たちに聞いた。

うぶき・さとる
 呉市出身。京都大卒。広島県史「原爆資料編」の編さんに当たり、広島大助教授などを経て2011年まで広島女学院大教授。専門は被爆史など。78歳。

(2024年11月9日朝刊掲載)

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