[ヒロシマドキュメント 1945年] 11月 町内会 各地で動き出す
24年11月9日
1945年11月。中国新聞に全7回の記事「復興する町内会」(10~20日付)が載った。被爆した市民の声を伝える本紙連載の先駆け。広島市内各地の生活再建への動きのほか、困り事や行政への注文を聞いている。
初回は、爆心地から約1・3キロ東にバラックの事務所を構えていた下柳町内会。当時45歳の板谷翼会長は取材に、住宅問題を語っている。「最初苦労して建てた家は水禍にやられていま建つてゐるのはいづれも二度目のもの」
今の稲荷大橋西詰めの京橋川西岸に広がり、もともと384世帯1400人が住んでいたという。原爆で壊滅後、8月末ごろまでに7世帯が戻り、焼け跡にバラックが姿を見せていた(今年9月16日付本連載で紹介)。それもつかの間、9月17日の枕崎台風に襲われた。
連載取材時の町は28世帯60人。事務所の屋根に、焼き倒れた木の下に残っていた赤い町内会旗が掲げられていた。「この旗の下に同じ地に住んで家族を失ひすべてを散じたお互ひが励まし合つて生きてゐる次第です」
連載2回目は爆心地から約2キロ南東の平野町を訪ねた。被爆前の400世帯1500人は60世帯270人余りに減少。半壊家屋や仮小屋が並ぶ一角の町内会事務所には「治療致します」の看板が掛かり、被災者のためおきゅうや指圧をしていた。
会長事務を代行する田中隆雄さんは物資不足を嘆いた。「市から衣類の配給を受けましたが、一人当り水に濡(ぬ)れ半分方朽ちたと思われる白シヤツが一枚あるかなし(略)毛布も六十の世帯に四枚きり、これで果してこの冬が越せるものかどうか」
11月14日付本紙記事によれば、当時の市内の町内会数は250。被爆による壊滅で8月6日以前から10町内会減った。世帯数は4万減の3万6千(9月19日時点)。生き延びた市民がそれぞれの町で再起を図っていた。(山下美波)
(2024年11月9日朝刊掲載)
初回は、爆心地から約1・3キロ東にバラックの事務所を構えていた下柳町内会。当時45歳の板谷翼会長は取材に、住宅問題を語っている。「最初苦労して建てた家は水禍にやられていま建つてゐるのはいづれも二度目のもの」
今の稲荷大橋西詰めの京橋川西岸に広がり、もともと384世帯1400人が住んでいたという。原爆で壊滅後、8月末ごろまでに7世帯が戻り、焼け跡にバラックが姿を見せていた(今年9月16日付本連載で紹介)。それもつかの間、9月17日の枕崎台風に襲われた。
連載取材時の町は28世帯60人。事務所の屋根に、焼き倒れた木の下に残っていた赤い町内会旗が掲げられていた。「この旗の下に同じ地に住んで家族を失ひすべてを散じたお互ひが励まし合つて生きてゐる次第です」
連載2回目は爆心地から約2キロ南東の平野町を訪ねた。被爆前の400世帯1500人は60世帯270人余りに減少。半壊家屋や仮小屋が並ぶ一角の町内会事務所には「治療致します」の看板が掛かり、被災者のためおきゅうや指圧をしていた。
会長事務を代行する田中隆雄さんは物資不足を嘆いた。「市から衣類の配給を受けましたが、一人当り水に濡(ぬ)れ半分方朽ちたと思われる白シヤツが一枚あるかなし(略)毛布も六十の世帯に四枚きり、これで果してこの冬が越せるものかどうか」
11月14日付本紙記事によれば、当時の市内の町内会数は250。被爆による壊滅で8月6日以前から10町内会減った。世帯数は4万減の3万6千(9月19日時点)。生き延びた市民がそれぞれの町で再起を図っていた。(山下美波)
(2024年11月9日朝刊掲載)