[ヒロシマドキュメント 1945年] 11月 父母奪われ孤独な「帰宅」
24年11月12日
1945年11月。当時13歳の喜馬理陽(まさはる)さん(92)=広島市安佐南区=が、被爆後初めて大手町(現中区)の自宅跡に立った。やけどの療養を経て、やっと「帰宅」したが、すでに父母は世にいなかった。爆心地の南約1・2キロ。建物は跡形もなく、門の跡を目印に、母友子さん=被爆当時(34)=がいただろう台所付近を掘り返すと、遺骨が見つかった。
8月5日は喜馬さんの誕生日だった。翌6日の登校時、母は好物の卵焼き入りの弁当を持たせてくれた。「行って帰ります」。広島県立広島商業学校(現県立広島商業高)の1年生。移転先の皆実町(現南区)の校庭で原爆の爆風に吹き飛ばされた。
顔や手足にやけどを負い、救護所となった大河国民学校(現南区の大河小)を経て、鈴張村(現安佐北区)の寺で長く療養した。家族の消息はつかめないでいた。
横川町の軽車輪組合に出勤していた父康夫さん=当時(46)=は、妻子を捜そうにも重傷を負って動けず、救護所の観音国民学校(現佐伯区の五日市観音小)にいた。8月20日の消印で義弟にはがきを送り、「友子や理陽の生死かは(分)かりません。其(そ)の後手掛ハありませんでしようか」と案じている。再会はかなわず、9月2日に亡くなった。
喜馬さんは9月中旬、寺を訪れた祖母から父の死を聞いた。孤児となり、戦後は土木会社やガラス店などを転々とし、住み込みで働いた。夜間の中学と高校を卒業した。
「優しい母でした。せっかく作ってくれたのに食べることができなくて」と、あの日の弁当を思い返す。父の「形見」となったはがきは長く保管していたが、2014年に原爆資料館へ寄贈した。(山本真帆)
(2024年11月12日朝刊掲載)
8月5日は喜馬さんの誕生日だった。翌6日の登校時、母は好物の卵焼き入りの弁当を持たせてくれた。「行って帰ります」。広島県立広島商業学校(現県立広島商業高)の1年生。移転先の皆実町(現南区)の校庭で原爆の爆風に吹き飛ばされた。
顔や手足にやけどを負い、救護所となった大河国民学校(現南区の大河小)を経て、鈴張村(現安佐北区)の寺で長く療養した。家族の消息はつかめないでいた。
横川町の軽車輪組合に出勤していた父康夫さん=当時(46)=は、妻子を捜そうにも重傷を負って動けず、救護所の観音国民学校(現佐伯区の五日市観音小)にいた。8月20日の消印で義弟にはがきを送り、「友子や理陽の生死かは(分)かりません。其(そ)の後手掛ハありませんでしようか」と案じている。再会はかなわず、9月2日に亡くなった。
喜馬さんは9月中旬、寺を訪れた祖母から父の死を聞いた。孤児となり、戦後は土木会社やガラス店などを転々とし、住み込みで働いた。夜間の中学と高校を卒業した。
「優しい母でした。せっかく作ってくれたのに食べることができなくて」と、あの日の弁当を思い返す。父の「形見」となったはがきは長く保管していたが、2014年に原爆資料館へ寄贈した。(山本真帆)
(2024年11月12日朝刊掲載)