×

社説・コラム

[A Book for Peace 森田裕美 この一冊] 「少年が来る」 ハン・ガン著、井手俊作訳(クオン)

歴史の傷を引き受ける

 活字を追う目の奥に映写機でも埋め込まれたかのように、脳裏に物語の情景が浮かぶ。雨が降り出しそうな空も、凄惨(せいさん)な暴力の果てに並べられたひつぎも。民の慟哭(どうこく)が聞こえ、流血の臭気さえ漂ってくるようだ。

 ことしのノーベル文学賞に決まった韓国の作家ハン・ガンによる長編小説。1980年、光州で民主化を求める市民を軍が武力弾圧し、おびただしい数の死傷者を出した「光州事件」を題材にしている。9歳までを光州で過ごした著者は事件数カ月前にソウルへ引っ越したという。自分にもあり得た体験との思いがあったのだろう。歴史のひだに入り込むような調査を踏まえて声なき声を聞き、受け入れがたい歴史の傷を豊かな言葉でいまによみがえらせる。

 物語の軸となるのは1人の少年の死だ。章ごとに異なる人称と話者で、生々しい暴力が証言されていく。現場にいた中学生、火葬を待つ死者、拷問を生き延びた女性、誰かを見捨てて生き残り自責の念にさいなまれながら命をつなぐ人々…。

 その語りからは、事件がもたらす深い悲しみや苦痛とともに、人間の獣性や残忍性があらわになる。読む者は目を背けたくなる現実に引き込まれ、「隣国で起きた過去の出来事」として傍観することを許されない。ある声は続く痛みを放射線被曝(ひばく)に例え、ある声は人間の残虐性を南京やボスニアとも重ねる。

 〈僕をなぜ殺したんだ〉―。遺体を山積みにされ、「数十本の足を垂らした怪物の死骸」のごとく葬られる死者の叫びからは、原爆に焼かれた人々の無念の声も聞こえる気がした。

 告発の書ではない。歴史の不条理を引き受け、普遍の人間を問うている。

これも!

①ハン・ガン著、斎藤真理子訳「別れを告げない」(白水社)
②ハン・ガン著、きむふな訳「菜食主義者」(クオン)

(2024年11月12日朝刊掲載)

年別アーカイブ