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連載・特集

ノーベル平和賞と被団協 取材者の証言 <2> 客員編集委員 籔井和夫

国家補償求める理論的支柱

伊東壮さんの冷静と情熱

 日本被団協の草創期から運動の先頭に立った一人が、経済学者の伊東壮さん(1929~2000年)だ。事務局長、代表委員を歴任した。

 初めてじっくり取材したのは米ニューヨークで開かれた1988年の第3回国連軍縮特別総会(SSD)だった。被団協代表団23人の団長として非政府組織(NGO)の集会で発言。10万人の平和行進に参加し、精力的に活動した。

 ところがNGO集会の後、「原爆で死んだ人、今も苦しむ人に代わって原爆被害を証言し、核兵器廃絶を訴えたつもりだけど、なんせ持ち時間は5分。これで世界が変わるわけではないからね」とぽつりと話した。

 力強いコメントを期待していた私は肩透かしに遭いながら、研究者らしい冷静さを感じた。一方、10万人平和行進の後は「一つの署名、一つの平和行進への参加、こんなことをして何になるかと思う人もいるが、世界は行動の積み重ねの中で動いている」と顔を紅潮させた。胸の奥には熱いものを秘めていた。

 91年8月に東京支社へ異動になった私は、伊東さんを取材する機会が増え、日本被団協の会議後や3・1ビキニデー集会の静岡市などで運動の歴史などについて聞いた。

 伊東さんは広島一中(現国泰寺高)3年の時、航空機のエンジン部品を造るため動員された東洋工業(現マツダ)の工場内で被爆。15歳だった。その後、一橋大経済学部(東京都国立市)に入学した。米国の水爆実験で第五福竜丸が被曝(ひばく)した54年3月のビキニ事件以降、原水爆禁止運動が全国的に盛り上がる中、国立の運動の世話役をしていた大学院の同級生と相談し、58年から被爆者の会づくりに取り組む。

 「一軒ずつ訪ねるんだけど、最初はけんもほろろ。何度も何度も訪ねるうちに、少しずつ胸の内を話してくれるようになってね」。11世帯17人で発足にこぎ着けた。さらに、東京都の被爆者団体「東友会」を率いた。

 生活に困窮する被爆者は多かった。2人の朝鮮人がやってきて、背中のケロイドを見せながら「自分たちも広島で原爆を受けた」と片言の日本語で生活の苦しさを訴えられたという。伊東さんは、救援金を工面して渡したこともある。

 「被爆者の苦境と向き合いながら『被爆とは何か』を突き詰めて考えるきっかけになった」。その結果、被爆者援護は国家補償であるべきだという考えに行き着く。「日本の戦争責任、戦後の被爆者無視の政策などを追及し、原爆被害を補償させなければならない」との考えからだった。

 日本被団協の内部でも、被爆者援護は社会保障の範囲内でいいとする見解もあった中、あくまで国家補償としての「完全援護法」を求めるための理論的支柱となった。

 60年代には原水禁運動分裂の余波が日本被団協に及ぶが、統一を守り通した。「被爆者が分裂していて巨大な核権力と闘えるわけがない」との信念を貫いた。

 ただ、分裂の危機の舞台裏について何度か尋ねると「まだ生きている人がいるからね。波風が立ってもいけないから」と話そうとはしなかった。

 被爆者運動に関わってきた経験が生きたのが、92~98年の山梨大学長就任だった。大学関係者によると、「組織をまとめるのがうまく、何事にも真摯(しんし)に取り組む姿勢が信頼を集めた」。日本被団協代表委員との兼務は激務だったろうが、頼まれると断らない。伊東さんらしかった。

やぶい・かずお
 1980年中国新聞社入社。89~90年連載「世界のヒバクシャ」、被爆50年企画「核と人間 ABCC編」を取材。原爆報道のキャップ・デスクを務め解説委員などを歴任。67歳。

(2024年11月12日朝刊掲載)

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