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連載・特集

ノーベル平和賞と被団協 取材者の証言 <2> 元常務取締役 兼重収

犠牲者代弁した 「反核の父」

森滝市郎さん 日記に刻む

 先輩記者と幾度となく訪れた広島大名誉教授で「反核の父」とも呼ばれた森滝市郎さん。当時84歳の先生は、自宅の書斎でしばしばつぶやいた。「あの日を生き残ったわたしは亡くなった人々にいつも相すまぬ気持ちを持ち続けた」

 被爆40年に向けて朝刊に200回連載した「森滝日記」の取材で、約1万3千日分にわたる被爆後の自らの歩みを無理をお願いし公開していただいた。そこに記された事実は次代に語り継ぐべきヒロシマの軌跡だった。

 森滝さんは、亡くなった人々に代わり「言うべきことは言い、なすべきことはなさねばならぬ、怠ることは許されないという気持ちで生きてきた」。その信念を貫き、原爆で右眼を失いながら92歳で亡くなるまで核兵器廃絶と被爆者援護法運動の先頭に立ち続けた。

 1950年に広島文理科大教授に就任した翌年、広島大平和問題研究会の世話人に名を連ね、53年には広島子どもを守る会会長として当時約6500人ともいわれた原爆孤児の精神養子運動に取り組んだ。家庭まで壊した原爆被害の深層を明らかにするための草の根の反核運動だった。

 55年8月6日に広島で開かれた第1回原水爆禁止世界大会の現地事務局長を務め、翌56年に日本被団協の代表委員。さらに広島県被団協の初代理事長に就任した。被爆者援護法の制定を出発点から運動の柱に据えていた。

 援護法は森滝さんが亡くなった94年に成立した。だが原爆医療法と被爆者特別措置法の一本化にとどまる内容で、森滝さんたちが求める国家補償の精神に欠けていた。

 核実験を巡るいわゆる「いかなる国」問題で社会党と共産党の対立から原水禁運動が分裂。62年、米ソの核実験に抗議して、原爆慰霊碑前での12日間の座り込み。大学に辞表を出しての行動は、後には引かぬ強い思いにすさまじいほどの執念を覚えた。

 ノーベル文学賞受賞者で作家の大江健三郎さんは、抗議の輪の中にいつも森滝さんがおられたことを追悼集に「ここに哲学者がいる」と寄せた。「広島、長崎の経験は、それを哲学とする、あるいは人間の思想とすることで、初めて人類共通の資産となる」

 78年5月、ニューヨークの国連本部で初の軍縮特別総会が開かれた。被爆者ら502人の「国連に核兵器完全禁止を要請する日本国民代表団」が派遣され、森滝さんも加わった。代表団の行動はこの夏の原水禁世界大会が市民主導で統一開催される足がかりになる。

 生涯を通して「人類は生きねばならぬ」と叫び続け、「力の文明」を否定し「愛の文明」を提唱した。ノーベル平和賞は、森滝さんの魂を受け継ぎ警鐘を鳴らし続けた「ヒバクシャ」に大きな勇気をもたらした。

 職場のロッカーいっぱいになった日記のコピー。締め切りに追われ、その山と格闘しながら、先生への聞き取りや関係者への取材に追われる日々だった。

 ともに担当した栗栖武士郎記者(1944~2006年)は被爆者。私も、母が爆心地から約1キロの舟入町電停近くの自宅で被爆し、娘を目の前で失っている。生涯、体にガラスが刺さったままだった。被爆者の家庭に生まれ育った身に、原爆報道は気が重かった。だがヒロシマの生の歴史に触れたことは、その後の連載「段原の700人」などの取材に役立った。

かねしげ・おさむ
 1972年中国新聞社入社。81~89年、報道部で「森滝日記」専従班や広島市政担当。被爆者援護法成立時は東京支社編集部。編集局長、常務取締役などを歴任。75歳。

「段原の700人」
 1985年に87回連載。爆心から2キロの段原地区で開業した医師が原爆医療法もなかった55年に作成した700枚の被爆者検診カードを手掛かりに、被爆者を追跡取材。病気や生活苦、社会の偏見に直面しながら生きる人々を克明に記した。85年、連載「アキバ記者」と併せ「ヒロシマ40年報道」として新聞協会賞を受賞。

(2024年11月12日朝刊掲載)

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