[ヒロシマの空白] 被爆死の家族 足跡求め 府中の2世曽我部さん、ガイド活動機に独自調査
24年11月13日
「父の話聞いておけば…」 病院や学校巡る
平和記念公園(広島市中区)でのガイド活動を経て、原爆で亡くなった祖父や異母姉について調べ始めた被爆2世の女性がいる。今春から市観光ボランティアガイド協会で活動している曽我部文江さん(66)=府中町。「父の話をもっと聞いておけば良かった」。後悔を抱きながらも、原爆の悲惨さを伝え続ける。(石井千枝里)
「すごい。祖父が生きていた証しですね」。10月上旬、爆心地・島病院(現島内科医院)で、院長だった故島薫さんが被爆後に書き残した「島病院戦災記録」を見て、つぶやいた。祖父「中河内金助」の名前が書き残されている。保管されていた別の便箋によると、祖父は入院患者だったとみられる。香典の受領者欄には父松夫さん(1999年に93歳で死去)の名があった。「島先生に感謝です」。薫さんの長男一秀さん(90)と妻直子さん(81)に何度も伝えた。
松夫さんは1945年8月6日、爆心地から約1・5キロの広瀬北町(現中区)で被爆した。大やけどを負い、手や肩にケロイドが残った。松夫さんの妻は無傷のように見えたが、45年9月に亡くなったという。
曽我部さんは松夫さんの再婚後、3姉妹の末っ子として生まれた。父が大好きで毎日よく話した。祖父や異母姉である露子さんの話も聞いた。露子さんは祇園高等女学校(現安佐南区)に通っており、島病院近くにあった広島郵便局で学徒動員中に亡くなったとみられる。17歳だった。ただ当時は、知らない家族の話は理解できず、大人になって思い出すことはなかった。
昨春に退職し、「勉強になれば」とガイド講座に参加した。受講のたびに自分の知識のなさを知り、同時に父への申し訳なさもこみ上げた。「父の人生は原爆で百八十度変わっていたのに」
猛勉強し、今年5月にガイドデビュー。同時に被爆死した家族についても調べ始めた。9月下旬には、AICJ中高(安佐南区)を訪れた。かつて祇園高女があった場所。敷地内にある露子さんたちの名が刻まれた慰霊碑に手を合わせた。露子さんは顔写真が残っており、近く国立広島原爆死没者追悼平和祈念館へ名前と遺影の登録をするつもりだ。
「父は『戦争と原爆はいけん』と何度も言っていた」。ガイドで爆心地を説明する際、必ず家族の話をしている。
(2024年11月13日朝刊掲載)