[ヒロシマドキュメント 1945年] 11月13日 犠牲の長男思い日記
24年11月13日
1945年11月13日。広島への原爆投下当日から100日目となった。34歳で今の広島市安佐北区白木町に住んでいた山根初恵さんは、家族で営む「山根酒造店」の請求書用紙をノート代わりに日記をつけた。長男秀雄さんのいない寂しさをつづった。
「今日ハ秀雄往(い)ッテ百日目光陰矢ノ如(ごと)ク 母ト子ノ霊ハ一日々々遠クナッテ段々追イテ行カレル気ガシテ淋(さび)シイ」
「後ヲ振リ向キ オ母チャン〳〵早ク御出(おい)デヨト呼ブアノ子ノ姿ガ見エル。エェ マッテ、スグスグ行クカラ‼」
8月6日、12歳で広島県立広島工業学校(現県立広島工業高)1年だった秀雄さんは、動員されて建物疎開作業へ出た。「毎朝ノ様ニ母ニ対スル挨拶(あいさつ)ヲ正シクシテ」(初恵さんの6日の日記)、卵焼きや野菜を詰め合わせた母手製の弁当を携えていた。
動員場所は市中心部の中島新町(現中区)。初恵さんは連日焦土を捜し歩いたが、「何一ツ手ガカリ無シ」(7日)。13日、現場辺りで黒焦げの中身が残る弁当箱を見つけた。ただ、本人の行方はついに分からず、遺骨も見つからなかった。
「兄は頭が良くて優しくて。花が好きで、よそで分けてもろうたのを植えて喜んでいました」。妹芳枝さん(90)=安佐北区=は生前をしのぶ。引き裂かれた後も母はことあるごとに思い出を口にした。「兄の話が出ん日がなかった」
11月13日の日記には、この日、地元の寺に頼んで法要を営み、生まれたばかりの頃を思い出して涙が出たとも記す。「十三年前、オ前ニ乳房ヲフクメテ横ニナッタ母ノ希望ニ満チタ姿ヲ想出(おもいだ)シ タマラナクナリマシタ」
仏壇に遺影を置き、毎日拝んでいたが、10年後の55年に43歳で逝った。「当時は肺病と言われましたが、原爆症だと思います」と芳枝さん。家族と受け継ぐ母の日記には、亡くなる約2カ月前にも「夕ベ秀雄ノ夢ヲ見タ」とある。(編集委員・水川恭輔)
(2024年11月13日朝刊掲載)
「今日ハ秀雄往(い)ッテ百日目光陰矢ノ如(ごと)ク 母ト子ノ霊ハ一日々々遠クナッテ段々追イテ行カレル気ガシテ淋(さび)シイ」
「後ヲ振リ向キ オ母チャン〳〵早ク御出(おい)デヨト呼ブアノ子ノ姿ガ見エル。エェ マッテ、スグスグ行クカラ‼」
8月6日、12歳で広島県立広島工業学校(現県立広島工業高)1年だった秀雄さんは、動員されて建物疎開作業へ出た。「毎朝ノ様ニ母ニ対スル挨拶(あいさつ)ヲ正シクシテ」(初恵さんの6日の日記)、卵焼きや野菜を詰め合わせた母手製の弁当を携えていた。
動員場所は市中心部の中島新町(現中区)。初恵さんは連日焦土を捜し歩いたが、「何一ツ手ガカリ無シ」(7日)。13日、現場辺りで黒焦げの中身が残る弁当箱を見つけた。ただ、本人の行方はついに分からず、遺骨も見つからなかった。
「兄は頭が良くて優しくて。花が好きで、よそで分けてもろうたのを植えて喜んでいました」。妹芳枝さん(90)=安佐北区=は生前をしのぶ。引き裂かれた後も母はことあるごとに思い出を口にした。「兄の話が出ん日がなかった」
11月13日の日記には、この日、地元の寺に頼んで法要を営み、生まれたばかりの頃を思い出して涙が出たとも記す。「十三年前、オ前ニ乳房ヲフクメテ横ニナッタ母ノ希望ニ満チタ姿ヲ想出(おもいだ)シ タマラナクナリマシタ」
仏壇に遺影を置き、毎日拝んでいたが、10年後の55年に43歳で逝った。「当時は肺病と言われましたが、原爆症だと思います」と芳枝さん。家族と受け継ぐ母の日記には、亡くなる約2カ月前にも「夕ベ秀雄ノ夢ヲ見タ」とある。(編集委員・水川恭輔)
(2024年11月13日朝刊掲載)