[被団協に寄せて ノーベル平和賞] 韓国の原爆被害者を救援する市民の会会長 市場淳子さん
24年11月13日
援護法 在外適用に力
戦争被害への「補償」を
≪ノルウェー・オスロである日本被団協へのノーベル平和賞授賞式に、韓国原爆被害者協会から鄭源述(チョン・ウォンスル)会長と、2世の李太宰(イ・テジェ)さんが出席する。≫
授賞理由に「すべての被爆者に敬意を表したい」とありました。韓国も含めすべての被爆者に向けられたのだと思え、本当に良かったです。
≪「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」は、韓国の協会から故辛泳洙(シン・ヨンス)さんが来日して窮状を訴えたのを機に、呼応したさまざまな立場の人たちが1971年に大阪で結成した。当時は在韓被爆者に目を向ける日本の被爆者や平和運動団体は少なかった。≫
日本の被爆者も、病気や生活困窮など自分のことで精いっぱい。戦後間もなくは差別意識もあったと思います。
韓国の協会と日本被団協の交流や協力が本格化したのは95年の被爆者援護法施行以降。日本政府が国外に住む被爆者に援護法適用を拒んだのに対し、韓国、米国、ブラジルの被爆者が連帯して適用を求めるようになると、被団協も「在外被爆者への援護法適用」を自らの課題に掲げました。
≪98年、韓国原爆被害者協会の会長を務めた故郭貴勲(クァク・クィフン)さんが日本政府などを相手取り提訴。在ブラジル、在米被爆者も後に続いた。≫
司法での闘いと同時に、国会議員への働きかけなどの取り組みは、運動の蓄積がある日本被団協の人たちから多くの助言をもらいました。超党派の議員懇談会もでき、在外被爆者への援護法適用は大きく動きました。とりわけ被団協の代表委員を務めた故伊東壮さんは早くから協力してくれました。
≪伊東さんは広島での原体験に加え、経済学者として知識や理論に基づき草創期から運動をけん引。国家補償を盛り込んだ援護法の制定を求める運動の理論的支柱となった。≫
伊東さんは被爆者の問題を解決するのに「三つのホショウ」を提唱しました。その思想は私の活動の軸をなしています。国が始めた戦争による原爆被害に対する「過去の補償」、現在の被爆者を支える社会保障的な「現在の保障」、二度と核の被害が起きない世界をつくる証しを示す「未来の保証」です。
これを韓国の被爆者に当てはめて考えると、多くの課題が見えます。日本政府は裁判に負けやむなく援護法を適用するようになりましたが、それは植民地支配と戦争がもたらした被害への「過去の補償」ではなく、「現在の保障」にとどまっています。
「未来の保証」につなげるためにも、日本政府と原爆を投下した米政府に反省と謝罪と補償を求め続けます。被爆者たちの運動の経験を、人類の問題としてどう生かすかが問われていると思うのです。(聞き手は森田裕美)
いちば・じゅんこ
広島県出身。1979年に初めて韓国を訪れ、在韓被爆者の実態に接して以来、「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」の活動に携わる。99年から会長。大阪府豊中市在住。68歳。
(2024年11月13日朝刊掲載)