[ヒロシマドキュメント 1945年] 11月 甘味と憎しみ 子の思い交錯
24年11月14日
1945年11月。米陸海軍合同の米戦略爆撃調査団が広島市の破壊状況を調べていた。ドイツ空爆の分析のため前年に米大統領命令で創設され、日本では原爆の「効果」などを研究。物的損害調査部の約30人は10月14日から市内で調査を始め、11月26日まで続けた。
壊れた建物や橋が大量に撮られたが、調査と直接関係ない写真も残る。海軍の写真班員H・J・ピーターソンさんが爆心地近くの相生橋(現中区)で撮った一枚は、米軍関係者から菓子を手渡される子どもが写る。
連合軍の広島県内への進駐が10月6日に本格化。7日にかけ米軍の約2万人が呉市や海田町に入っていた。調査団の報告書によれば、広島市での活動開始時はまだ米軍人の立ち入り制限が宣言されていたが、終わりごろになって「軍の観光ツアー」にも開放された。
県警察部は事前に「連合軍進駐地附近住民ノ心得」(県立文書館所蔵)を作り、注意を促した。「成ベク外国兵士ト接触シナイ様注意スルコト」「暴行略奪等ノ事故ガ生ジタナラバ大声ヲ発シテ近所ニ救ヲ求メル」。ただ、占領期に子どもだった人たちは、さまざまな「接触」を証言する。
4歳で被爆した横田礼右さん(83)=中区=はチョコレートやガムをもらう近所の子どもをまね、市内で進駐軍から菓子を受け取ったという。「こんなおいしいものがあるのかと。当時は米国が悪いとか、そんなことは一つも思わなくてね」
広中正樹さん(85)=福山市=は終戦後に戻った故郷の福山市で進駐軍のトラックに石を投げたと打ち明ける。5歳で広島で原爆に遭い、通勤中に被爆した父一さん=当時(37)=が犠牲になった。
麦畑に隠れたが、トラックから降りてきた兵士が発砲し、弾丸が頭の上を飛んだという。「いたずらへの反省はある。でも父を奪われた憎しみがあった」(山本真帆)
(2024年11月14日朝刊掲載)
壊れた建物や橋が大量に撮られたが、調査と直接関係ない写真も残る。海軍の写真班員H・J・ピーターソンさんが爆心地近くの相生橋(現中区)で撮った一枚は、米軍関係者から菓子を手渡される子どもが写る。
連合軍の広島県内への進駐が10月6日に本格化。7日にかけ米軍の約2万人が呉市や海田町に入っていた。調査団の報告書によれば、広島市での活動開始時はまだ米軍人の立ち入り制限が宣言されていたが、終わりごろになって「軍の観光ツアー」にも開放された。
県警察部は事前に「連合軍進駐地附近住民ノ心得」(県立文書館所蔵)を作り、注意を促した。「成ベク外国兵士ト接触シナイ様注意スルコト」「暴行略奪等ノ事故ガ生ジタナラバ大声ヲ発シテ近所ニ救ヲ求メル」。ただ、占領期に子どもだった人たちは、さまざまな「接触」を証言する。
4歳で被爆した横田礼右さん(83)=中区=はチョコレートやガムをもらう近所の子どもをまね、市内で進駐軍から菓子を受け取ったという。「こんなおいしいものがあるのかと。当時は米国が悪いとか、そんなことは一つも思わなくてね」
広中正樹さん(85)=福山市=は終戦後に戻った故郷の福山市で進駐軍のトラックに石を投げたと打ち明ける。5歳で広島で原爆に遭い、通勤中に被爆した父一さん=当時(37)=が犠牲になった。
麦畑に隠れたが、トラックから降りてきた兵士が発砲し、弾丸が頭の上を飛んだという。「いたずらへの反省はある。でも父を奪われた憎しみがあった」(山本真帆)
(2024年11月14日朝刊掲載)