[ヒロシマドキュメント 1945年] 11月15日 直下の郵便局 配達再開
24年11月15日
1945年11月15日。広島市の広島郵便局が、職員の復員や新規採用を経て、配達係員による郵便配達を再開した。れんが造り3階地下1階の庁舎は爆心地の島病院の筋向かいにあり、8月6日に壊滅。庁舎にいた職員は誰も助からず、動員学徒を含めて300人近くが犠牲になっていた。
郵便課の中本七郎さん=当時(28)=は5日が夜勤だった。妻美代子さんが3歳から生後1カ月までの3児をリヤカーに乗せ、口田村(現安佐北区)の自宅から捜し歩いたが遺骨も見つからなかった。
美代子さんは無事を願い続け、98年に79歳で亡くなった。長男の妻まゆ美さん(77)=安佐北区=は「『今もどこかで生きていると思う』と被爆から数十年たっても語っていた」と話す。
一方、非番などで助かった職員たちは被爆5日後、千田町(現中区)の広島貯金支局内の分室で窓口業務を再開した。ただ、多数の職員を失ったため、配達業務は町内会に代行を頼んでいた。
11月15日から係員の配達に戻し始めたが、当初は市内全域ではなかったという。職員だった広藤正人さんは「己斐・観音・江波など焼けなかった所には配達しましたが、市内中央部は町内会長のところへ一括配達していたように思う」(76年の座談会)と回想する。
配達の壁は、人員ばかりではなかった。11月22日付中国新聞に「バラックにも表札を 郵便局からお願ひ」の見出しが躍る。記事では「配達に種々支障を招く」として、応急住宅への表札取り付けを市民に呼びかける広島駅前郵便局長の声を紹介している。
戦前のポストには木製の物もあり、同じ記事には「ポストの焼失のため郵便物の発信に非常な不便を来してゐる」とも指摘。被爆後にあらためて置かれた場所もあったが、「ポストを持ち帰って、薪にするものもある」と郵便局側の苦慮を伝えている。(山下美波)
(2024年11月15日朝刊掲載)
郵便課の中本七郎さん=当時(28)=は5日が夜勤だった。妻美代子さんが3歳から生後1カ月までの3児をリヤカーに乗せ、口田村(現安佐北区)の自宅から捜し歩いたが遺骨も見つからなかった。
美代子さんは無事を願い続け、98年に79歳で亡くなった。長男の妻まゆ美さん(77)=安佐北区=は「『今もどこかで生きていると思う』と被爆から数十年たっても語っていた」と話す。
一方、非番などで助かった職員たちは被爆5日後、千田町(現中区)の広島貯金支局内の分室で窓口業務を再開した。ただ、多数の職員を失ったため、配達業務は町内会に代行を頼んでいた。
11月15日から係員の配達に戻し始めたが、当初は市内全域ではなかったという。職員だった広藤正人さんは「己斐・観音・江波など焼けなかった所には配達しましたが、市内中央部は町内会長のところへ一括配達していたように思う」(76年の座談会)と回想する。
配達の壁は、人員ばかりではなかった。11月22日付中国新聞に「バラックにも表札を 郵便局からお願ひ」の見出しが躍る。記事では「配達に種々支障を招く」として、応急住宅への表札取り付けを市民に呼びかける広島駅前郵便局長の声を紹介している。
戦前のポストには木製の物もあり、同じ記事には「ポストの焼失のため郵便物の発信に非常な不便を来してゐる」とも指摘。被爆後にあらためて置かれた場所もあったが、「ポストを持ち帰って、薪にするものもある」と郵便局側の苦慮を伝えている。(山下美波)
(2024年11月15日朝刊掲載)