×

連載・特集

ノーベル平和賞と被団協 取材者の証言 <3> 元編集局次長 安東善博

被爆教師 継承の礎築く

平和教育やヒロシマ修学旅行

 猛暑が続いたこの夏も、被爆体験を持つ元教師の森下弘さん(94)=広島市佐伯区=や豊永恵三郎さん(88)=安芸区=らが広島を訪れる「ヒロシマ学習」の若者らに語りかける姿があった。

 ノーベル賞委員会が発表した日本被団協への平和賞授賞理由に「いつか歴史の目撃者としての被爆者はわれわれの前からいなくなる。しかし、記憶を守る強い文化と継続的な関与により、日本の新たな世代は被爆者の経験とメッセージを引き継いでいる」との一節がある。被爆者が自らをさらけ出しながら取り組んだ「継承」を、ノーベル賞委員会は高く評価した。

 日本被団協の結成は終戦から11年後。切迫した被爆者援護とともに、被爆体験をどう語り継ぐかという切実な課題が生じていた。語らなかった被爆者が口を開き始め、学校現場で「平和教育」の取り組みが始まった。

 私は広島大在学中、被爆者として平和運動をけん引した森滝市郎先生や今堀誠二先生の授業に学び、ゼミは原爆孤児の支援で知られる中野清一先生が担当教官だった。入学時に下宿したのは、被爆体験を歌集「さんげ」などに詠んだ正田篠枝さんのアパート。記者になり、原爆の悲惨さを報じたい、と足を運んだ取材先に平和教育の先駆けとなった被爆教師やその仲間たちがいた。

 広島県被爆教師の会が県教職員組合の先生たちにより結成されたのが69年。翌年、県高校被爆教職員の会が生まれた。72年に広島で初の平和教育シンポジウムが開かれ、翌年からの全国シンポジウム開催につながった。

 千人以上の教師が自作の平和教材などを持ち寄り討議する、熱気に満ちた会場。県被爆教師の会会長の石田明さん、中学校教師の空辰男さんら多くの実践者がいた。県高校被爆教師の会の初代会長、森下さんは85年から大阪府立松原高などでの証言を続ける傍ら、高校教師のための平和読本を作ってきた。

 在韓被爆者の救援運動から自らの体験を語ることになった元教師の豊永さんは84年に「ヒロシマを語る会」を結成。年間50回近い活動を続ける。メンバーだった沼田鈴子さんは「ヒロシマを語るならオキナワも知らなければ」と沖縄の戦跡を巡った。被爆時のけがで左足を失った沼田さんが足場の悪いガマ(自然洞窟)を懸命に歩く。同行した私は疲れた沼田さんを背負ってガマを出た。

 広島市職員で後に原爆資料館長になった高橋昭博さんも、亡くなるまで語り続けた。交流した修学旅行生が生き方を変えた、とうれしそうに話していた。そのような青年の一人に東京・上平井中の生徒がいるが、同校が都内初の公立中ヒロシマ学習校になるきっかけをつくったのが長崎被爆の教師、江口保さんだ。晩年は広島にすみかを移してまでヒロシマ修学旅行に情熱を注いだ。

 広島が全国的な修学旅行先となったのも、原点には先人たちの地道な活動がある。

 旧制中学3年の建物疎開中に被爆し、顔や首にケロイドを残しながら「命ある限り語る」という森下さん。9歳の時、母と3歳の弟を捜して入市被爆、地獄絵を見た豊永さんは「平和は創っていかなければいけない。平和のバトンを受け取って」と話を結ぶ。

 私は今、小さな若者の継承グループに顔を出している。そこで切明千枝子さん(95)=安佐南区=は女学生時代の被爆体験に加えて、戦時下の庶民の生活の苦しさにも触れて語りかける。「平和はじっと待っていても来てはくれません。力を尽くして、引き寄せ、つかみ取り、みんなで懸命に守らないと、逃げてしまいます」。被爆者が若者に託していることだ。

あんどう・よしひろ
 1965年中国新聞社入社。77年から87年まで報道部で広島市政など担当。報道部長、編集局次長を経て99年、中国放送取締役。2007~11年社長。81歳。

(2024年11月18日朝刊掲載)

年別アーカイブ