[ヒロシマドキュメント 1945年] 11月18日 峠さん 花束持って来場
24年11月18日
1945年11月18日の日曜。広島市小町(現中区)にあった中国配電(現中国電力)本店のビルで、歌の「新人コンクール」が開かれた。市内の理髪店などが開催に携わり、14日付中国新聞の広告欄で「若人待望の! 歌謡曲大会!」とPRしていた。
当時28歳の峠三吉さんも会場を訪れたと、18日の日記に記す。10月に知人と「みどり洋花店」を始めており、優勝者に贈る花束を届けるためだった。ただ、満員でぎゅうぎゅうの会場で流行歌が次々と披露されるうち、「会場混乱、花束行方不明となる」(日記)
同じ日記帳に8月6日からの日々も記録している。爆心地から約3キロの翠町(現南区)の自宅で被爆し、近くの広島陸軍被服支廠(ししょう)の倉庫で「忘るべからざる」(8日)惨状を見た。「広いコンクリートの床に毛布をぢかに敷きてその上に向き〳〵に横(た)はれる半裸の火傷患者らその半ばは既に動かざる死屍と化す」(同)
やがて自身も体調を崩し、三原市内の病院に入院。9月に広島市に戻った。花の露店は今の広島電鉄皆実町六丁目電停近くで営み、進駐軍向けに英語の看板も用意し、米軍人も訪れた。
終戦を告げられた直後の「情けなく口惜しき思ひ」(8月15日)からの心境の変化も書き残している。「現在苦しくとも最早や終戦せるなれば前途は僅(わず)か宛(ずつ)なりとも光明あり」(10月2日)「終戦となって良かった」(同8日)「働きて友と家路につく気持は又かくべつなり」(11月17日)
峠さんは被爆前から、気管支の病気に苦しみながら詩や童話の創作を続けていた。「来客少なければ今日はもう売らむと焦る気持を捨て、静かに秋色深き空を眺め童話の腹案を練ったりする」(10月26日)。被服支廠の惨状を描写した「倉庫の記録」などを収めた「原爆詩集」を51年に出版する。(編集委員・水川恭輔)
(2024年11月18日朝刊掲載)
当時28歳の峠三吉さんも会場を訪れたと、18日の日記に記す。10月に知人と「みどり洋花店」を始めており、優勝者に贈る花束を届けるためだった。ただ、満員でぎゅうぎゅうの会場で流行歌が次々と披露されるうち、「会場混乱、花束行方不明となる」(日記)
同じ日記帳に8月6日からの日々も記録している。爆心地から約3キロの翠町(現南区)の自宅で被爆し、近くの広島陸軍被服支廠(ししょう)の倉庫で「忘るべからざる」(8日)惨状を見た。「広いコンクリートの床に毛布をぢかに敷きてその上に向き〳〵に横(た)はれる半裸の火傷患者らその半ばは既に動かざる死屍と化す」(同)
やがて自身も体調を崩し、三原市内の病院に入院。9月に広島市に戻った。花の露店は今の広島電鉄皆実町六丁目電停近くで営み、進駐軍向けに英語の看板も用意し、米軍人も訪れた。
終戦を告げられた直後の「情けなく口惜しき思ひ」(8月15日)からの心境の変化も書き残している。「現在苦しくとも最早や終戦せるなれば前途は僅(わず)か宛(ずつ)なりとも光明あり」(10月2日)「終戦となって良かった」(同8日)「働きて友と家路につく気持は又かくべつなり」(11月17日)
峠さんは被爆前から、気管支の病気に苦しみながら詩や童話の創作を続けていた。「来客少なければ今日はもう売らむと焦る気持を捨て、静かに秋色深き空を眺め童話の腹案を練ったりする」(10月26日)。被服支廠の惨状を描写した「倉庫の記録」などを収めた「原爆詩集」を51年に出版する。(編集委員・水川恭輔)
(2024年11月18日朝刊掲載)