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[ヒロシマドキュメント 1945年] 11月 女学院校舎焼失 牛田へ

 1945年11月。広島女学院高等女学校(現広島女学院中高)は、広島市から借りた牛田国民学校(現東区の牛田小)の4教室で授業を再開していた。爆心地の北東約1・2キロ、上流川町(現中区)にあった木造2階建て校舎は原爆で倒壊し、全焼。生徒・教職員計350人以上を失った。

 1886年の創立以来、キリスト教に基づく女子教育に注力。ただ、戦時中は「スパイ学校」との風評が立ち、米国人教師の引き揚げや憲兵隊からの迫害も経験した。

 8月6日は、講堂が崩れ、礼拝直後の専門学校の生徒たちが下敷きとなった。火炎が迫る中、松本卓夫院長が助けられたのは8人。翌日、焼け跡には、黒焦げの遺体が折り重なっていた。

 1、2年生の約半数は雑魚場町(現中区)の建物疎開作業に動員され、大半が亡くなった。「みんな、お国のためにと一生懸命でした」。当時1年生の大田美穂子さん(91)=西区=は6日、作業が休みだった。舟入川口町(現中区)の自宅で被爆した4日後、学校に向かい「何もないし誰もいない。まだ火がくすぶっていた」

 「広島女学院百年史」(91年刊)によると、学校は9月20日に牛田山の校地で慰霊式を営み、校舎の焼け跡や動員先で集めた遺骨を遺族に渡した。10月5日には、牛田国民学校で専門学校と高女の隔日授業を始めた。

 松本院長は手記集「夏雲」に、「八十余名の生徒が繃帯(ほうたい)を頭や腕に巻き付けたり、びっこを引いたりして集まってまさに哀れな生徒の群れであった。しかし、彼らは再び学業に就く喜びを満面にたたえて来た」(85年版)とつづっている。

 大田さんも身を寄せていた安村(現安佐南区)の親戚宅を朝6時に出て通った。「5クラスあった1年生は20人ほどしか来ていなかった。亡くなった同級生の分まで清く正しく生きねばと思いました」。学校は46年2月に牛田校地に建てたバラック校舎へ。上流川町で再建したのは47年8月だった。(山下美波)

(2024年11月17日朝刊掲載)

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