×

ニュース

[ヒロシマドキュメント 1945年] 11月ごろ 焦土の中 日銀支店営業

 1945年11月ごろ。焦土の中で、日本銀行広島支店が爆心地から380メートルの広島市袋町(現中区)に立っていた。堅固な鉄筋造りで、被爆2日後に支払い業務を再開していた。

 ギリシャ風の装飾彫刻や渦巻き状の柱頭など、古典様式が特徴的な建物で36年に建った。戦時中は空襲に備え、屋上に約1メートルの土砂が盛られていた。8月6日、窓のよろい戸を閉じていた1、2階は大破を免れたが、開いていた3階は全焼した。建物内にいた日銀職員8人と、3階に入っていた広島財務局の12人が犠牲になった。

 地下の金庫は残った。支店の追悼集「みたまやすかれ」(77年刊)によると、被爆直後に高山廣・営業課長が金庫を確認。「一号金庫のダイヤルには苦心しました。ジャリジャリで―。力一杯やりました」。2階で被爆した吉川智慧丸支店長は重傷を負っていたが、6日のうちに2日後の再開を決めた。

 軍の協力で片付け、8日午前10時半に支払い業務を開始。1階の窓口を12区分し、各金融機関の仮営業所を設けた。高山課長は「私の鉄庫に貸し付けの極度額のメモを入れておりましたので、それを頼りに。印鑑なんかももちろんないけど、みんな取引先のことだし顔を知っていますので、母印でどんどんやりました」(61年の座談会)。

 初日に出勤した支店職員は10人。泊まり込んで負傷者の救護もした当時20歳の支店長秘書、田中鈴子さん(2018年に93歳で死去)は9日から15日までほぼ毎日、日記に体の不調をつづった。「胸が苦しい」「体がだるくて仕方がない」。ほかにもけが人や体調不良者がおり、10人中3人が9月上旬までに亡くなった。

 支店は10月1日に手形交換も始めた。各金融機関は8月末から46年春ごろにかけて店舗跡に建てた建物などに復帰した。田中さんは結婚を機に48年に退職。妹の出雲純子さん(76)=西区=は「姉は戦後もずっと体が弱かった。当時を思い出すからと、退職後は支店の建物に一度も行きませんでした」。  (山下美波)

(2024年11月19日朝刊掲載)

年別アーカイブ