[ヒロシマドキュメント 1945年] 11月20日 仮社殿造り胡子大祭
24年11月20日
1945年11月20日。商売の神様として信仰を集めていた胡子神社が焼け野原の広島市胡町(現中区)に再建され、1603年の創建以来続く大祭を営んだ。
爆心地から約850メートルにあり、社殿を原爆で焼失した。「広島原爆戦災誌」(1971年刊)によると、8月10日ごろには生き残った地元住民たちが集った。境内にバラックを建てて町内会事務所を置くと申し合わせ、復興を見据えた。
有志で焼け跡の片付けをし、材木を集めて仮社殿を造営。林寿麿さんが秋に撮った写真には、まん幕や太鼓も写る。被爆後初の大祭は、約20人で執り行った。
隣接する商店街「金座街」を含む一帯には、洋服店を中心に約80軒の商店があったとされる。戦前には胡子大祭に合わせたセールもあり、にぎわったが、原爆により、鉄筋の福屋百貨店など一部を残して、店も住宅も消えていた。
胡子神社の東隣で、しょうゆなどの醸造品を扱っていた「尼子商店」もその一つだったが、召集されていた尼子清松さんが復員後、跡地で自宅を再建。醸造機器などの販売に乗り出した。46年結成の胡町復興連盟の理事長も務めた。
次男の昌夫さん(86)=東区=は戦時中に庄原市に疎開していて、終戦から2年ほどたって胡町に戻った。父と共に長年大祭に携わり、総代も務めた。「父や地域の人たちが続けてきた祭り。昔はもっともっと人が多くてね」と懐かしむ。
社殿は49年に木造で再建され、その後鉄筋に建て替えられた。縁起物の熊手「こまざらえ」は明治期にはあったという。先人が絶やすことなくつないできた広島三大祭りの一つは、ことしで422回目となった。(山本真帆)
(2024年11月20日朝刊掲載)
爆心地から約850メートルにあり、社殿を原爆で焼失した。「広島原爆戦災誌」(1971年刊)によると、8月10日ごろには生き残った地元住民たちが集った。境内にバラックを建てて町内会事務所を置くと申し合わせ、復興を見据えた。
有志で焼け跡の片付けをし、材木を集めて仮社殿を造営。林寿麿さんが秋に撮った写真には、まん幕や太鼓も写る。被爆後初の大祭は、約20人で執り行った。
隣接する商店街「金座街」を含む一帯には、洋服店を中心に約80軒の商店があったとされる。戦前には胡子大祭に合わせたセールもあり、にぎわったが、原爆により、鉄筋の福屋百貨店など一部を残して、店も住宅も消えていた。
胡子神社の東隣で、しょうゆなどの醸造品を扱っていた「尼子商店」もその一つだったが、召集されていた尼子清松さんが復員後、跡地で自宅を再建。醸造機器などの販売に乗り出した。46年結成の胡町復興連盟の理事長も務めた。
次男の昌夫さん(86)=東区=は戦時中に庄原市に疎開していて、終戦から2年ほどたって胡町に戻った。父と共に長年大祭に携わり、総代も務めた。「父や地域の人たちが続けてきた祭り。昔はもっともっと人が多くてね」と懐かしむ。
社殿は49年に木造で再建され、その後鉄筋に建て替えられた。縁起物の熊手「こまざらえ」は明治期にはあったという。先人が絶やすことなくつないできた広島三大祭りの一つは、ことしで422回目となった。(山本真帆)
(2024年11月20日朝刊掲載)