[ヒロシマドキュメント 1945年] 11月 無残な姿 文教エリアも
24年11月21日
1945年11月。広島市東千田町(現中区)の広島文理科大(現広島大)の構内で、かつての学びやが無残な姿をさらしていた。爆心地から約1・5キロ南東に位置。戦前に西日本の「学都」としても知られた広島市の文教エリアだったが、被爆の傷は深かった。
同じ構内の広島高等師範学校(現広島大)や、広島高師付属中(現広島大付属中高)の木造校舎は倒壊し、焼失。広島文理科大の理論物理学研究所なども壊滅した。
被爆建物で現存する鉄筋の広島文理科大本館などとともに、わずかに焼け残ったのが広島高師付属国民学校(現広島大付属小)の鉄筋校舎だった。「広島原爆戦災誌」(71年刊)によれば、児童450人のうち270人は広島県北の西城町(現庄原市)の寺に集団疎開、約160人は縁故疎開をしていた。
集団疎開に加わった5年の清水曠(ひろし)さん(90)=中区=は8月末に母に迎えられて広島市内に戻ると、気になってすぐに学校に向かった。鉄筋の校舎は外形をとどめていても、机を並べていた教室など内部は焼き尽くされていた。その場に一人、立ち尽くした。「思い出の場所を壊されてしまった感じがして」。児童11人が被爆死していた。
同校の集団疎開は9月末で終わったが、広島高師や付属中と同じく東千田町への即時復帰は断念。大乗村(現竹原市)にあった広島文理科大の臨海教育場を間借りし、11月に授業を再開した。付属小の「八十年誌」(85年刊)によると、児童157人が寝食を共にした。清水さんも山あいへの集団疎開から一転、沿岸に移った。
その間、保護者たちが費用を集め、校舎の窓などを修理。大乗村の授業は46年3月に終え、東千田町に復帰した。ただ、被爆後は生活の窮迫で通学困難になる児童もいたという。(山本真帆)
(2024年11月21日朝刊掲載)
同じ構内の広島高等師範学校(現広島大)や、広島高師付属中(現広島大付属中高)の木造校舎は倒壊し、焼失。広島文理科大の理論物理学研究所なども壊滅した。
被爆建物で現存する鉄筋の広島文理科大本館などとともに、わずかに焼け残ったのが広島高師付属国民学校(現広島大付属小)の鉄筋校舎だった。「広島原爆戦災誌」(71年刊)によれば、児童450人のうち270人は広島県北の西城町(現庄原市)の寺に集団疎開、約160人は縁故疎開をしていた。
集団疎開に加わった5年の清水曠(ひろし)さん(90)=中区=は8月末に母に迎えられて広島市内に戻ると、気になってすぐに学校に向かった。鉄筋の校舎は外形をとどめていても、机を並べていた教室など内部は焼き尽くされていた。その場に一人、立ち尽くした。「思い出の場所を壊されてしまった感じがして」。児童11人が被爆死していた。
同校の集団疎開は9月末で終わったが、広島高師や付属中と同じく東千田町への即時復帰は断念。大乗村(現竹原市)にあった広島文理科大の臨海教育場を間借りし、11月に授業を再開した。付属小の「八十年誌」(85年刊)によると、児童157人が寝食を共にした。清水さんも山あいへの集団疎開から一転、沿岸に移った。
その間、保護者たちが費用を集め、校舎の窓などを修理。大乗村の授業は46年3月に終え、東千田町に復帰した。ただ、被爆後は生活の窮迫で通学困難になる児童もいたという。(山本真帆)
(2024年11月21日朝刊掲載)