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[ヒロシマドキュメント 1945年] 11月 壁ない教室で授業続く

 1945年11月。広島市南千田町(現中区)の修道中(現修道中・高)は教室の不足が続いていた。爆心地から約2・4キロ南にあり、職員や近隣住民の消火活動もあって焼失を免れたが、校舎の大半が倒壊した。

 「修道学園史」(78年刊)などによれば、半壊した一部の校舎を応急修理して4教室を使えるようにし、9月15日に授業を再開。ただ、屋根や壁の損壊はひどく、雨の日は授業を中止した。米戦略爆撃調査団が撮影した写真には、一方の壁がない建物の1階に生徒の姿が写る。

 当時の学校は約千人規模で最低20教室が必要だった。学校関係者や保護者は46年1月、「復興後援会」の発会式を開き、4月の入学も見込んで、本格的な修理や仮校舎の建設のため費用の調達に動き始めた。

 安否確認・所在調査は3カ月を過ぎても続けられ、中国新聞の45年11月14日付に「未ダ登校シ居ラザルモノハ至急学校ト連絡スベシ」と呼びかける修道中の広告が載った。生徒の犠牲は188人を数えた。

 生活が一変し、学校に戻れない生徒もいた。2年だった尾崎稔さん(今年10月に92歳で死去)は、復学を諦めた体験を絵に描き、原爆資料館に寄贈している。

 原爆に祖母と母、妹を奪われた。電気技師で旧満州(中国東北部)にいた父の引き揚げは終戦の約2年後で、姉、弟と3人で生き抜かねばならなかった。生活のため広島の鉄道の通信士の募集に応じ、12月から働き始めた。絵のタイトルは「13才の就職」。15歳以上の募集だったが、事情を知った採用側の関係者の「人情」ある助言を受け、年齢を偽って合格したと書き添えている。(編集委員・水川恭輔)

(2024年11月22日朝刊掲載)

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