[ヒロシマドキュメント 1945年] 11月25日 被爆生徒ら健康を心配
24年11月25日
1945年11月25日。中国新聞に「症状は回復しても この冬無理は禁物」の見出しの記事が載った。広島の原爆被害を調べ続けていた東京帝国大(現東京大)の放射線医学の専門家、都築正男教授の談話だった。
都築教授は、被爆時に屋外にいた人の被害が際立ち、屋内でも「(放射線を)どれだけかは受けてゐると見做される」と指摘。爆心地から半径1キロ以内にいた人は治療が困難とし、1キロ以上2キロ以内は「ある程度治療によって癒る」とその時点での見方を説明した。
この時期、急性放射線障害による白血球の減少は回復傾向がみられていた。ただ、「もう半年、とくにこの冬は無理をせぬやう、風邪を引かぬやうに注意してほしい。白血球がふえたからといって必ずしも安心出来ない」と呼びかけた。
市公文書館に、記事を読んで心配した生徒から都築教授に届いたはがきが残る。送り主は広島高等師範学校付属中(現広島大付属中高)の科学学級4年「片岡純夫」。
戦時下に国策でできた科学学級の4年生26人は爆心地から約1・5キロの東千田町(現中区)の校舎で被爆した。「片岡」さんは倒れた校舎の下敷きになり、同級生2人は死亡したと説明。助かった生徒も「一時髪の抜けた者あり」と伝えた。
授業は今の尾道市に移って11月に再開したが、「今尚原因不明の熱を出し、又引いた風邪が根治しがたい者あり」。一方で春の卒業に向けた勉強のため5時間の睡眠も取れない生徒もいると打ち明け、尋ねた。「どうすれば良いでせうか」
実は送り主は片岡二郎さんの名字と山野上純夫さんの名前の「合名」。科学学級4年の親友同士だった。山野上さんは毎日新聞記者になり、2021年に92歳で死去した。前年に同紙連載の回顧録「ヒロシマを生きて」を刊行。片岡さんはがんのため30代で逝き、「原爆の後遺症に違いない」とつづっている。(編集委員・水川恭輔)
(2024年11月25日朝刊掲載)
都築教授は、被爆時に屋外にいた人の被害が際立ち、屋内でも「(放射線を)どれだけかは受けてゐると見做される」と指摘。爆心地から半径1キロ以内にいた人は治療が困難とし、1キロ以上2キロ以内は「ある程度治療によって癒る」とその時点での見方を説明した。
この時期、急性放射線障害による白血球の減少は回復傾向がみられていた。ただ、「もう半年、とくにこの冬は無理をせぬやう、風邪を引かぬやうに注意してほしい。白血球がふえたからといって必ずしも安心出来ない」と呼びかけた。
市公文書館に、記事を読んで心配した生徒から都築教授に届いたはがきが残る。送り主は広島高等師範学校付属中(現広島大付属中高)の科学学級4年「片岡純夫」。
戦時下に国策でできた科学学級の4年生26人は爆心地から約1・5キロの東千田町(現中区)の校舎で被爆した。「片岡」さんは倒れた校舎の下敷きになり、同級生2人は死亡したと説明。助かった生徒も「一時髪の抜けた者あり」と伝えた。
授業は今の尾道市に移って11月に再開したが、「今尚原因不明の熱を出し、又引いた風邪が根治しがたい者あり」。一方で春の卒業に向けた勉強のため5時間の睡眠も取れない生徒もいると打ち明け、尋ねた。「どうすれば良いでせうか」
実は送り主は片岡二郎さんの名字と山野上純夫さんの名前の「合名」。科学学級4年の親友同士だった。山野上さんは毎日新聞記者になり、2021年に92歳で死去した。前年に同紙連載の回顧録「ヒロシマを生きて」を刊行。片岡さんはがんのため30代で逝き、「原爆の後遺症に違いない」とつづっている。(編集委員・水川恭輔)
(2024年11月25日朝刊掲載)