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連載・特集

ノーベル平和賞と被団協 取材者の証言 <4> 元社長 今中亘

在米被爆者 苦難越え運動

援護訴え 医師団派遣を実現

 中国新聞社は1974年から約20年間、米ニューヨークに支局を置き、主に国連本部での核軍縮交渉などを現地から報道していた。私は77年春から3年間赴任。西海岸とを行き来し、在米被爆者の取材を重ねた。

 着任から間もない時期の一件が忘れられない。ある日、ハンバーガー店で隣席の客に「どこから来たのか」と聞かれた。「日本の広島です」と答えると「ヒロシマというならこちらはパールハーバー(真珠湾)だ!」と言い放たれた。原爆は日本の軍国主義に対する当然の報いという意識は根深い。広島・長崎の被爆者が原爆投下国で生きることの過酷さを思った。

 在米被爆者は、日系移民の子どもで親の古里にいて被爆した「帰米2世」や、被爆後に日本から移住した人たちだ。国民皆保険制度はなく、被爆者だと分かると民間保険にも入れない国で、病気や健康不安に苦しんでいた。ロサンゼルスの据石和さんやサンフランシスコの倉本寛司さんらは、広い国土に暮らす仲間を捜し出して組織化。米政府に援護を要求するとともに広島からの専門医派遣を求めていた。

 切実な声を受け止めたのが広島の医師たちだ。77年、県医師会と放射線影響研究所の共同事業として医師団が渡米。今に続く北米被爆者健診が始まった。健診会場で医師が広島弁で「頑張りんさいよ」と語りかけると、皆が涙を流す。私も被爆者から歓迎され、よく家に泊めてもらった。

 在米被爆者たちは、米国での被爆者援護法制定を求めて運動を展開した。連邦議会下院の公聴会にこぎ着けたが、実現には至らなかった。活動方針を巡って当事者間のあつれきも深まり、米国の被爆者運動は数々の曲折を経る。だが、被爆者であることを明かして行動の先頭に立った皆が、同胞のためわが身をなげうっていた姿は本物だ。

 その後在米被爆者の援護策は、94年に成立した日本の被爆者援護法の在外適用を求める運動を通じて徐々に進んだ。

 米国取材で、ときに怒りに駆られた。米国社会の原爆認識についてだけではない。被爆者の訴えと裏腹に、日本政府も原爆被害を前面に出さない姿勢だったからだ。米国への忖度(そんたく)だろう。78年5月の第1回国連軍縮特別総会が最たる例である。

 米ソが対立した冷戦期。軍縮に特化した総会は初めてで、日本からは後に広島県被団協理事長となる伊藤サカエさんをはじめ被爆者と市民約500人が渡米。広島からは朝鮮籍の被爆者、李実根(リ・シルグン)さんも有志の署名運動に支えられ、法務省の再入国許可を得た。さまざまな意味で画期的だった。

 ところが、国連本部ロビーで広島、長崎両市主催の原爆写真展が開幕する直前に、国連事務局が被災者を捉えた悲惨な写真の一部撤去を求めてきたとの情報が入る。圧力の出どころは分からなかったが、急ぎ報道した。被爆地から反発の声が上がり、程なく展示は復活した。被爆国日本の国連代表部は、問題に一切関与しようとしなかった。

 日本被団協のノーベル平和賞受賞の報に思い浮かんだのは、据石さんや倉本さんら亡き在米被爆者のこと。7年前に同賞を受けた「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN(アイキャン))」の象徴的存在となったカナダ在住のサーロー節子さん(92)も、1970年代から北米での証言活動にまい進していた。ニューヨークで今に続く知己を得た一人である。海外の被爆者の苦難も、今回の受賞の重要な一部だと信じる。

いまなか・わたる
 1959年中国新聞社入社。報道部長、編集局長などを経て2000~06年社長。08~14年、広島原爆資料館の展示見直しを考える基本計画検討委の委員長。88歳。

(2024年11月25日朝刊掲載)

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