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連載・特集

ノーベル平和賞と被団協 取材者の証言 <4> 元解説委員室長 島津邦弘

生き抜いた 市井の被爆者

「原爆の子」「原爆孤児」たどる

 1941年の真珠湾攻撃直後に生まれ、原爆投下時は3歳。広島市の北30キロにいた。母は生前、閃光(せんこう)、爆音、きのこ雲について時折話してくれた。被爆後に市内から移住してきた同級生は、あの日のことを驚くほど詳細に語った。しかし、僕は何一つ記憶がない。

 そんな僕が70年、被爆25年報道に携わった。先輩記者たちは戦争、原爆を自らの体験あるいは記憶として書いた。しかし僕は、歴史としてつづるほかない。

 自分と同じか少し上の世代の被爆者はどう生きてきたのか。被爆25年報道を終えての遅い夏休み中、たまたま手にしたのが「原爆の子」(岩波書店)だった。広島大の長田新教授(当時)が朝鮮戦争下の51年、市内の子どもたちの体験記から105編を選んだ手記集。

 畳に寝転がって読み始め、次第に居住まいをただし、目頭を押さえている自分に気付いた。出版から20年の71年、電話帳などを頼りにほとんどが消息不明だった手記の執筆者を突き止め、記者として初めて被爆者と向き合い連載「『原爆の子』20年」を書いた。取材が機縁でほぼ半数の住所録を作成し、掲載紙とともに当事者に渡した。「原爆の子」同士の途絶えていたつながりが復活し、「もう一度体験記を」という機運が生まれた。

 4年後の75年、既に閉鎖されていた「広島戦災児育成所」の創設者・故山下義信氏から「育成の記録」という資料を紹介され、連載「生き抜いた30年 原爆孤児育成記録から」にまとめた。記録と聞き取り取材を通じて、被爆者を含む戦災孤児の生活史を書いた。

 「食糧は統制下にあり、ヤミ米の売買者は厳罰を受けた。そうしたなかで日々約100人の(子どもと職員の)生活を賄うことは容易でなかった。私財の大部分をこのヤミ米に費消した」という戦後占領下の苦境。育成所の保育士だった女性は、巣立ってゆく原爆孤児の後ろ姿を「人生の 門出にいづる 親なき子 行李(こうり)一つを持ちて 出で行く」と詠んだ。

 被爆者団体や原水爆禁止運動に無関心だったわけではない。ただ、どちらかというと市井の被爆者を取材することが多かった。その集大成が89年から13の国と地域に住む無名の放射線被害者を7人の記者で訪ね歩いた「世界のヒバクシャ」だった。

 旧ソ連の末期。セミパラチンスク核実験場(当時)はまだ立ち入り禁止だった。でもカザフスタンのアマチュアカメラマンは、核実験の跡を示す「原子の湖」のデータや写真を空港でこっそり手渡してくれた。ソ連の官憲に知られたら、彼の身はどうなっていたか。彼も実験場周辺で育ったヒバクシャのひとりだった。

 僕は「『原爆の子』20年」でこう書いた。「20年目の“原爆の子”は、外から見るかぎりでは、きわめて平凡な一市民であった。一市民であろうとする努力こそが、むしろ彼らの目標であったのかもしれない。しかし、26年前の出来(でき)ごとと、その時から始まった苦難の道を忘れることは出来ない」

しまづ・くにひろ
 1964年中国新聞社入社。報道部で70年から6年間、原爆報道を担当。89年「世界のヒバクシャ」取材班。95年、被爆50年取材班代表。97~2008年比治山大教授。82歳。

(2024年11月25日朝刊掲載)

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