[私の道しるべ ヒロシマの先人たち] 被爆証言者 篠田恵さん(92) 沼田鈴子
24年11月25日
人生懸けて 語り続ける
13歳で被爆した体験を人前で語るようになったのは15年ほど前、70代後半になってからだ。被爆当時は広島女子商業学校(現広島翔洋(しょうよう)高)の2年生。広島市中心部での建物疎開作業を休んで命拾いした「後ろめたさ」を抱え、長く口を閉ざしてきた。
若い世代に語り始めたのは、背中を押してくれた恩師がいたからだ。平和記念公園(中区)の被爆アオギリの下で修学旅行生たちに被爆体験を語り続けた沼田鈴子さん(2011年に87歳で死去)。
知り合ったのは被爆から5年後、入学し直した安田女子高(同)の2年生の時。家庭科教諭だった沼田さんの授業を受けた。お互いの趣味の編み物を通して親しくなり、たくさんの猫と暮らしていた沼田さんの自宅に招かれたこともあった。
「いつも明るくて笑顔を絶やさない先生が、戦争で絶望を経験していたなんて当時は思いもしませんでした」。沼田さんの凄絶(せいぜつ)な被爆体験をつぶさに聞いたのはずっと後。沼田さんが晩年に高齢者施設で暮らすようになってからだった。
被爆当時22歳だった沼田さんは爆心地から約1・3キロの勤務先、広島逓信局(現中区)にいた。建物の下敷きになり、左足を切断。婚約者も戦死し、戦後は生きる希望を見いだせずにいたが、新芽を出した被爆アオギリに勇気づけられ、生きる道を選んだという。
沼田さんが公に語るようになったのは、被爆から40年近くたった頃。1980年代前半、米戦略爆撃調査団が撮影した原爆記録フィルムを市民が少しずつ買い戻し、記録映画を制作した「10フィート運動」が契機だった。映像と証言による記録映画「にんげんをかえせ」(82年)に出演したことで欧米での上映会などに参加するようになり、被爆の実情を語ろうと決意。証言者グループ「ヒロシマを語る会」の結成にも加わった。
「憎しみの心の中から平和は生まれない」と、苦しみを乗り越えてきた体験を語るとともに、日本のアジアへの加害責任にも向き合った。市民団体「広島アジア友好学院」の学院長として、東南アジアや中国の人々との交流に力を尽くした。自ら希望を得た被爆アオギリに平和への思いを託し、種を広める活動も続けた。
「人生を懸けてヒロシマの体験と戦争の愚かさを伝えていました」。そんな恩師の姿に心打たれ、資料を準備するなどして沼田さんの証言活動を陰で支えた。修学旅行生への証言が1日に4回も予定されていた日には、体調が心配で「断ったらどうですか」と声をかけたが、沼田さんは「私には時間がない」と聞かなかった。「強い信念を感じました」
恩師をそばで支えていたある日、「篠田さんの被爆体験を聞かせてほしい」と市民団体から依頼を受けた。長く封印してきた記憶だ。迷っていると、沼田さんに言われた。「あなたが見たままを語りなさい。私のような経験をする人間を二度とつくってはいけない」。自分が知る被爆の実情を語ることが、二度と被爆者をつくらないことにつながるのだと、恩師の言葉を受け止めた。
70代後半になって証言活動を始め、85歳で広島市の「被爆体験証言者」に。今春、市の証言者は退いたが、若い世代に請われ、体験を語っている。証言に人生を懸けた恩師を思い、力を振り絞っている。(新山京子)
しのだ・めぐみ
広島市生まれ。旧姓世羅。大芝町(現西区)の自宅で被爆。当時17歳の姉と2歳の弟を失う。安田女子高卒業後、幼稚園教諭を経て22歳で結婚。3人の子どもを育てた。2017年、広島市の被爆体験証言者となり、今春引退。中区在住。
広島の被爆アオギリ
爆心地から1.3キロの広島逓信局の中庭で被爆。熱線や爆風を浴び、枯れ木同然になったが、翌春芽吹いた。1973年、中国郵政局の建て替えに伴い、平和記念公園に移植。毎年実る種を全国に広める市民活動や、種から育った苗木を修学旅行で広島を訪れた学校などに配る市の取り組みも続いている。
(2024年11月25日朝刊掲載)