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[ヒロシマドキュメント 1945年] 11月下旬 市長や市議 上京し陳情

 1945年11月下旬。広島市の木原七郎市長、市会の山本久雄議長、川本泉副議長ほか市議16人の陳情団が上京した。約1週間にわたり東京に滞在。占領政策を進める連合国軍総司令部(GHQ)と、日本政府に復興への協力を求めた。

 市会は13日に「復興委員会」をつくり、陳情の意見書を出す考えを示していた。当時の本紙記事によれば、「広島市の戦災は他都市のそれと異なり、人的、物的ともに損害甚大に上り復興には莫大(ばくだい)な経費と努力を必要とする」と被害の特異性を強調し、「復興補助率なども他都市と切離し最高率を考慮されるやう」求める内容だった。

 陳情活動の初日の26日に訪ねた大蔵省では渋沢敬三蔵相から「復興に全幅の協力後援を約された」(以下、山本議長の説明に基づく12月6日付本紙記事)。一方で、実現を目指したGHQのマッカーサー最高司令官との面会は断られた。

 ただ、GHQの「情報・企画担当」のマンソン大佐には会えた。広島市側が望む他都市よりも優先的な復興を巡り、GHQ側から「邦文統計書の提出方を求められるとともに所要経費の概算について質問があった」。

 山本議長は12月2日に広島市に戻り、陳情の結果を説明した。「われわれも各方面の厚情に応へ復興事業の一途を邁進(まいしん)する決心」「真の平和都市広島再建に尽くさねばならぬ」などと語った。

 本紙は同時期、11月1日現在の広島市の人口の調査結果を13万6518人と報じた。「激減ぶりは現代科学戦の破壊力の大なるを如実に物語ってゐる」(22日付記事)。約1年前の44年12月は34万2千人だった。(編集委員・水川恭輔)

(2024年11月24日朝刊掲載)

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