[ヒロシマドキュメント 1945年] 11月 市役所玄関に英語看板
24年11月23日
1945年11月。焼け残った広島市役所の正面玄関に英語の看板が掛けられていた。「HIROSHIMA CITY HALL」。もともとあった「廣島市廳」(広島市庁)の看板の上に重ねられた。
爆心地から約1キロ南の国泰寺町(現中区)にあり、鉄筋4階建て地下1階の庁舎は内部の部屋の大半を焼失。市会(定数48人)の議場内部も焼き尽くされた。市によると、市職員と市会議員合わせて445人が犠牲になった。
粟屋仙吉市長も公舎で被爆死した。当時の市長は公選ではなく、市会の推薦を受けて内務大臣が選任する官選。市会は9月29日に全員協議会を開き、22人が出席。木原七郎氏を選出した。今の安芸区出身で衆院議員を3期務めていた。
10月22日の木原氏の就任間もない時期に作られたとみられる「市長事務引継書」が市公文書館に残る。市財務課は財源に強い危機感を示した。「今次戦災ニ依リ歳入ニ於ケル中枢タル税収入、使用料ノ大半ヲ喪失シタルタメ現行予算ノ執行不可能ナル」。街の再建を進めるにも、住民の減少や産業への打撃は深刻だった。
かたや多方面で占領軍との折衝を迫られた。市は11月21日に機構改革を発表し、渉外課を設けた。業務は、進駐軍をはじめ外国人との交渉、海外の事情調査、通訳、英文の翻訳や和文の英訳などだった。
市会も13日に全員協議会を開き、早期の復興を目指す「復興委員会」を結成。これを報じた本紙記事は、連合国軍総司令部(GHQ)のマッカーサー最高司令官や、日本の首相、蔵相に復興への財政的な協力を求める意見書を出す考えであるとも伝えた。(編集委員・水川恭輔)
(2024年11月23日朝刊掲載)
爆心地から約1キロ南の国泰寺町(現中区)にあり、鉄筋4階建て地下1階の庁舎は内部の部屋の大半を焼失。市会(定数48人)の議場内部も焼き尽くされた。市によると、市職員と市会議員合わせて445人が犠牲になった。
粟屋仙吉市長も公舎で被爆死した。当時の市長は公選ではなく、市会の推薦を受けて内務大臣が選任する官選。市会は9月29日に全員協議会を開き、22人が出席。木原七郎氏を選出した。今の安芸区出身で衆院議員を3期務めていた。
10月22日の木原氏の就任間もない時期に作られたとみられる「市長事務引継書」が市公文書館に残る。市財務課は財源に強い危機感を示した。「今次戦災ニ依リ歳入ニ於ケル中枢タル税収入、使用料ノ大半ヲ喪失シタルタメ現行予算ノ執行不可能ナル」。街の再建を進めるにも、住民の減少や産業への打撃は深刻だった。
かたや多方面で占領軍との折衝を迫られた。市は11月21日に機構改革を発表し、渉外課を設けた。業務は、進駐軍をはじめ外国人との交渉、海外の事情調査、通訳、英文の翻訳や和文の英訳などだった。
市会も13日に全員協議会を開き、早期の復興を目指す「復興委員会」を結成。これを報じた本紙記事は、連合国軍総司令部(GHQ)のマッカーサー最高司令官や、日本の首相、蔵相に復興への財政的な協力を求める意見書を出す考えであるとも伝えた。(編集委員・水川恭輔)
(2024年11月23日朝刊掲載)