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社説・コラム

『今を読む』 連名寄稿 元大野石油店副社長 浜井順三(はまいじゅんそう)/元歴清社社長 久永洪(ひさながひろし) 平和都市ヒロシマの願い

第1回宣言と建設法 原点今こそ

 被爆80年の節目を来年に控え、日本被団協に今年のノーベル平和賞が授与されると先月、発表された。「核のタブー」の国際規範の醸成に、被爆者が並外れた努力を重ねた功績が認められた。

 かたや広島では、最近では昨年広島で開かれた先進7カ国首脳会議(G7サミット)で首脳たちが核なき世界を目指すことでは一致をみた一方、合意文書「広島ビジョン」は核抑止論を肯定したと批判を受けた。日本被団協へのノーベル平和賞も、裏を返せば現実には核使用のリスクが高まっている現実社会への警鐘だろう。「核なき世界」の理想と現実とのずれは、むしろこれまで以上に顕在化している。

 この「ずれ」と向き合いながら、私たちが訴えるべき真のヒロシマの平和理念とは何だろうか。

 今年は、広島復興の礎となった国の特別法「広島平和記念都市建設法」が1949年8月6日に施行されてから75年。広島平和記念都市建設計画に沿って、平和記念公園や平和大通りを整備する根拠となった。ここから、ヒロシマの「原点」に立ち返りたい。

 原点―。それは被爆後の廃虚であり、「75年間草木も生えない」といわれた焼け跡から立ち上がり、復興を遂げた先人の強い志だろう。それらを体現したのが、47年の第1回平和祭での平和宣言と、2年後の建設法制定だった。

 ときの市長は別名「原爆市長」の浜井信三。就任時は41歳だった。家族にも常に「こんなことを地球上で二度と起こしてはならない」と語り「何としてもヒロシマをよみがえらせる」と奮闘した。

 戦後占領下の第1回平和祭で浜井が読み上げた平和宣言は、戦争を根本否定すると同時に「この恐るべき兵器は恒久平和の必然性と真実性を確認せしめる『思想革命』を招来せしめた」と述べた。原爆は人類全体の破滅と文明の終末を招くという現実を、世界に突き付けた。核兵器と核使用に至らせる戦争、両方の放棄でしか人類を救う道はないとの訴えだった。

 「思想革命」を経た「絶対平和」は今もなお実現から遠い。だが戦争の絶えない今こそ、ヒロシマの思想の世界化が必要だ。そのためにすべきことを記したい。

 原爆と人類は将来にわたり共存不可能であることを、証言と警鐘、警告として被爆地から諦めずに発し続けなければならない。私たちは自らの戦争体験から、世界情勢に対する危機感を深めている。核兵器が人類の破滅と文明の終末をもたらすことを心から恐れる。

 次いで考えるべきは、昨年の広島サミットで痛感させられたことと関連している。

 建設法は、第1条に「恒久の平和を誠実に実現しようとする理想の象徴として、広島市を平和記念都市として建設することを目的とする」と定める。広島は長崎とともに、大国の論理に基づく国家主義の追求とは違う、「共生」の象徴となるべきだ。「共生」は、「核には核で」と相手を脅す核抑止とそもそも両立しない。

 ヒロシマとナガサキの責務と使命は、核兵器廃絶と戦争の根本否定という「絶対平和の思想革命」を世界の先頭に立って進める「リーダー都市」となること。国や各国首脳を頼るのではなく、世界の人々に国家主義の壁を越えて直接働きかけ、世界世論を築く道筋を模索するべきである。

 被爆地が世界でも重い存在なのは、戦争や紛争で疲弊した世界の人々の励ましとなっているからにほかならない。戦後復興への希望をも、世界に示し続けたい。

 平和と復興の「リーダー都市」となることは並大抵ではない。官民の力を束ねることが必要だ。今、行政と市民の連携は十分だろうか。第1回平和宣言と建設法に再び光を当て、理念を共有することで、共に歩む意志を再構築すべき時が来ている。

 ノーベル平和賞の受賞決定時にも言われたように、被爆地の役割や責務は一層大きくなる。だが被爆者の多くは既に80歳代後半から90歳代。被爆者や戦争体験者にとどまらない市民の取り組みとして、国家主義の壁を乗り越える道筋を「原点」から見いだしたい。私たちの心からの願いである。

元大野石油店副社長 浜井順三(はまいじゅんそう)
 広島市生まれ。浜井信三元市長の長男。原爆が投下された約3週間後、疎開先から広島へ戻る。広島大工学部卒。大野石油店副社長などを歴任。88歳。

元歴清社社長 久永洪(ひさながひろし)
 広島市生まれ。国民学校5年の時、入市被爆。広島大法学部卒。原爆被害から再起した家業の金銀箔(きんぎんぱく)壁紙メーカー歴清社に入り、社長を経て相談役。90歳。

(2024年11月23日朝刊掲載)

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