[ヒロシマドキュメント 1945年] 11月ごろ 8・6生まれ 妹亡くす
24年11月26日
1945年11月ごろ。後に漫画家となる当時6歳の中沢啓治さん(2012年に73歳で死去)は、8月6日に生まれた妹友子ちゃんを亡くした。被爆直後に産気づいた母キミヨさんが路上で産んだが母乳が出ず、重湯を飲ませていた。
広島市の神崎国民学校(現中区の神崎小)の校門そばで被爆した中沢さんは舟入本町の自宅の下敷きになった父、姉、弟を失った。逃れてきた母に再会すると「なにか大事そうにぼろ布を胸元にだいています。何を持っているんだろうと思ってのぞいて見たら、シワだらけで赤い顔をした赤ん坊がいました」(2012年刊の「はだしのゲン わたしの遺書」)。
終戦後、2人の兄を含む家族5人で江波地区(現中区)の親類方に身を寄せた。働きに出る母に代わり、中沢さんが妹の世話をした。頰ずりをし、ガーゼでくるんだ脱脂綿に重湯を染み込ませ、吸わせた。
食糧難で、川でアサリや海草を集めた。しかし母の母乳は出ず、生後3カ月ほどで妹は亡くなった。直前に大声で泣き続け「寝てくれたんだと思っていたら、もう死んでいたのです。ショックでした。『こいつ、乳が飲みたかったんだなあ』と」(わたしの遺書)。海岸で遺体を焼いた。
キミヨさんは残った3人を育て上げ、66年に60歳で亡くなった。中沢さんと結婚して間もなかった妻ミサヨさん(82)=埼玉県所沢市=は、広島市での葬儀後の様子を「義母はちゃんとした骨が残らず、夫は東京に帰るまで一言も話さなかった。骨まで放射線にやられたという怒りが爆発したのでしょう」。
これをきっかけに、中沢さんは2年後、自身初の原爆をテーマにした作品「黒い雨にうたれて」を出した。「原爆への怒り」は、代表作「はだしのゲン」につながっていく。(山下美波)
(2024年11月26日朝刊掲載)
広島市の神崎国民学校(現中区の神崎小)の校門そばで被爆した中沢さんは舟入本町の自宅の下敷きになった父、姉、弟を失った。逃れてきた母に再会すると「なにか大事そうにぼろ布を胸元にだいています。何を持っているんだろうと思ってのぞいて見たら、シワだらけで赤い顔をした赤ん坊がいました」(2012年刊の「はだしのゲン わたしの遺書」)。
終戦後、2人の兄を含む家族5人で江波地区(現中区)の親類方に身を寄せた。働きに出る母に代わり、中沢さんが妹の世話をした。頰ずりをし、ガーゼでくるんだ脱脂綿に重湯を染み込ませ、吸わせた。
食糧難で、川でアサリや海草を集めた。しかし母の母乳は出ず、生後3カ月ほどで妹は亡くなった。直前に大声で泣き続け「寝てくれたんだと思っていたら、もう死んでいたのです。ショックでした。『こいつ、乳が飲みたかったんだなあ』と」(わたしの遺書)。海岸で遺体を焼いた。
キミヨさんは残った3人を育て上げ、66年に60歳で亡くなった。中沢さんと結婚して間もなかった妻ミサヨさん(82)=埼玉県所沢市=は、広島市での葬儀後の様子を「義母はちゃんとした骨が残らず、夫は東京に帰るまで一言も話さなかった。骨まで放射線にやられたという怒りが爆発したのでしょう」。
これをきっかけに、中沢さんは2年後、自身初の原爆をテーマにした作品「黒い雨にうたれて」を出した。「原爆への怒り」は、代表作「はだしのゲン」につながっていく。(山下美波)
(2024年11月26日朝刊掲載)