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社説・コラム

『潮流』 森滝さんの「ふるさと」

■三次支局長 広田恭祥

 三次市の尾関山にある墓所を訪ねると、通路そばの墓標に「反核」の文字が見えた。側面には「俗名 森瀧市郎」。1994年1月に92歳で亡くなった森滝さんは妻しげさんと共に眠る。

 ススキが囲むそのお墓に10月中旬、地元の元中学教諭吉川昌彦さん(78)は花を手向けた。日本被団協がノーベル平和賞に決まって数日後。「森滝先生と出身地である三次との関わりにいま一度、光を当てたい」。そう意気込んでの墓参だった。

 吉川さんの父は大正末期、若き森滝さんから旧制三次中(現三次高)で英語を教わった。時を経て、原爆慰霊碑前に座り込む師の姿を報道で見るたび、誇らしげに思い出を語っていたという。

 旧君田村の農家で生まれ育った森滝さんは8人家族でにぎやかな生活を楽しんでいたという。旧制三次中には峠越えの8キロを通った。人との出会いや母校での教職を通じ「三次盆地が自分の血肉のような『ふるさと』になった」(げいびグラフ25号、81年)と寄稿した。

 故郷に再び戻ったのは広島で被爆した翌月。右目を失明し、治療で半年を過ごした星田眼科(現星田医院)の木造病棟は同市吉舎町に今も立つ。「核廃絶をいちずに訴え、私の祖父も父も尊敬していた」と星田昌吾院長(79)。力ではなく「愛の文明」の希求を確信した原点の地でもある。

 反核・被爆者運動の根底にある「人類は生きねばならぬ」の言葉は、みよしまちづくりセンター玄関のモニュメントに刻まれている。三次高の教育資料館や市君田支所でも足跡に触れられる。

 核や平和を巡る情勢が緊迫するいま、森滝さんならどう考え、行動するだろう―。「ふるさと」からも問い続けていく。

(2024年11月26日朝刊掲載)

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