[ヒロシマドキュメント 1945年] 11月 国民学校や高女 廃校に
24年11月27日
1945年11月。広島市猫屋町(現中区)の光道国民学校は廃校が決まっていた。爆心地から約700メートル西で鉄筋3階建て校舎は廃虚に残っていたが、運営する宗教団体・闡(せん)教部の役員の多くが被爆死。再開のめどが立たなかった。
1879年に浄土真宗門徒の私塾「光道館」として開校。吉田文次郎さん(90)=中区=は、きょうだい5人が通った。実家は近くの西九軒町(現中区)にあった漬物やつくだ煮の卸業。他の商店の子どもも学んでいた。
8月6日、当時5年生の吉田さんは集団疎開先の都谷村(現広島県北広島町)にいた。そこへ父母たちが面会に行く予定で学校に集まっていた。吉田さんは、母久子さんが子どもたちのおはぎを作るのに時間がかかり、全体の出発が遅れたと友人の父から聞いた。「母を待って亡くなった人がいたかもしれない。やるせない」。姉と妹も自宅で犠牲になった。
学校は9月、保護者宛てに「本校開校期も今のところ見通しつかず」と通知し転校を勧めた。10月27日に県へ廃校認可を申請し、12月10日に認められた。疎開先で助かった約160人の児童は家族を失い散り散りになっていた。自宅を失った吉田さんは廃校を知らぬまま、父の仕事の関係で川上国民学校(現東広島市)に6年生まで通った。
焼け残った光道国民学校の校舎は同じ宗派の旧制崇徳中(現崇徳中高)が間借りした。「進駐軍がダンスホールに改造しようとかいう話のあった矢先で、仏縁深い崇徳ならと、実に快くお借りできた」(64年刊の雑誌「崇徳記念号」)という。
45年11月には私立西高等女学校も廃校を伝える広告を15日付中国新聞に載せた。東観音町(現西区)の校舎は全壊全焼。1、2年生は小網町(現中区)の建物疎開作業に動員されていた。「広島原爆戦災誌」(71年刊)によると確認できただけで生徒217人が被爆死した。(山本真帆)
(2024年11月27日朝刊掲載)
1879年に浄土真宗門徒の私塾「光道館」として開校。吉田文次郎さん(90)=中区=は、きょうだい5人が通った。実家は近くの西九軒町(現中区)にあった漬物やつくだ煮の卸業。他の商店の子どもも学んでいた。
8月6日、当時5年生の吉田さんは集団疎開先の都谷村(現広島県北広島町)にいた。そこへ父母たちが面会に行く予定で学校に集まっていた。吉田さんは、母久子さんが子どもたちのおはぎを作るのに時間がかかり、全体の出発が遅れたと友人の父から聞いた。「母を待って亡くなった人がいたかもしれない。やるせない」。姉と妹も自宅で犠牲になった。
学校は9月、保護者宛てに「本校開校期も今のところ見通しつかず」と通知し転校を勧めた。10月27日に県へ廃校認可を申請し、12月10日に認められた。疎開先で助かった約160人の児童は家族を失い散り散りになっていた。自宅を失った吉田さんは廃校を知らぬまま、父の仕事の関係で川上国民学校(現東広島市)に6年生まで通った。
焼け残った光道国民学校の校舎は同じ宗派の旧制崇徳中(現崇徳中高)が間借りした。「進駐軍がダンスホールに改造しようとかいう話のあった矢先で、仏縁深い崇徳ならと、実に快くお借りできた」(64年刊の雑誌「崇徳記念号」)という。
45年11月には私立西高等女学校も廃校を伝える広告を15日付中国新聞に載せた。東観音町(現西区)の校舎は全壊全焼。1、2年生は小網町(現中区)の建物疎開作業に動員されていた。「広島原爆戦災誌」(71年刊)によると確認できただけで生徒217人が被爆死した。(山本真帆)
(2024年11月27日朝刊掲載)