被団協に平和賞 核廃絶へ「勇気」 HANWA声明
24年11月27日
核兵器廃絶をめざすヒロシマの会(HANWA)は26日、日本被団協へのノーベル平和賞授与決定について声明を発表した。援護や核兵器廃絶を求める被爆者の長年の闘いに触れ、「先人たちの意志に学び、巨大な核権力との闘いに、あらためて勇気を奮い起こさなければならない」との決意を示した。
被団協が国家補償による被爆者援護の要求と原水禁運動を両輪としてきたとし、「この理念は、先達からの遺産になっている」と強調した。ただ、国家補償は実現しておらず被爆者たちの怒りに共感を表明。その上で、「核の利用をやめない限り人類に未来はないことを再確認する」と訴えている。
(2024年11月27日朝刊掲載)
声明全文は以下です。
2024年ノーベル平和賞は日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)に授与された。ヒバクシャへの授賞を英断された勇気ある選定に敬意を表明する。
ノルウェー・ノーベル委員会フリードネス委員長は、授賞理由を発表するスピーチやインタビューにおいて、次のように述べた。
・・・1945年8月に、アメリカが広島、長崎に投下した2発の原爆によって、未曽有の人間的悲惨の極みをもたらした無差別大量虐殺と、地獄を生きのびた人々のケロイドや放射線障害による苦難は、長く覆い隠され顧みられずにきた。1956年、地元の被爆者団体は太平洋での核実験の被害者と共に自ら立ち上がり、日本原水爆被害者団体協議会を結成した。人類の文明を破壊する核の壊滅的な非道徳性の実態について身をもって証言し、この80年間核戦争の危機から何とか人類を守るため闘ってきた比類なき証人たちの組織である。
現在、世界で惹き起こされている戦争で、まさに核が使われようとしている危機にある時、我々が被爆者の意志を引き継ぎ、核と人類は共存できないことを確認しよう。・・・
私たちは、被爆者が、想像を絶する苦しみの中で、自らを救い、同時に人類をも救おうと決意し、血を吐く思いで闘い続け斃(たお)れていった先人たちの意志に学び、このノーベル平和賞が示した巨大な核権力との闘いに、あらためて勇気を奮い起こさなければならない。
日本被団協は、広島・長崎の被爆者が、1952年までは戦後占領軍のプレスコードの中にあっても、様々な被爆者のグループを作り、お互いに寄り添い支え合いながら、生活苦や病苦、肉親たちを喪失した悲嘆から、自ら国に被爆者援護を求めて立ち上がり、結集していった。
1954年のビキニ環礁におけるブラボー水爆実験により、第五福竜丸をはじめとする多くの漁船団は死の灰をかぶり、大きな犠牲をこうむった。核実験の被害を目撃した日本、世界の民衆は、原水爆禁止の国際的な運動に立ち上がり、一挙に大きな力を獲得して、1955年に第1回の原水爆禁止世界大会を開催し、被爆者たちは初めて世界に、原爆により受けた痛苦のさまを訴えた。
1956年3月には広島県被団協を結成して、同年8月までに被爆者の全国調査に奔走し、15県に被爆者組織を立ち上げ、第2回原水爆禁止世界大会において日本被団協を結成するに至った。その後、全国に網の目を張って強力な組織を作り上げていった。結成宣言『世界へのあいさつ』で、「かくて私たちは自らを救うとともに、私たちの体験をとおして人類の危機を救おうという決意を誓い合った」と、発信したのだった。
それは、日本被団協が当初から掲げてきた運動の理念と言われる「国家補償の理念にもとづく被爆者援護法の要求運動と原水爆禁止運動を車の両輪とする」というものである。この理念は、現在も取り組まれ続けている世界の核被害者の運動に引き継がれている先達からの遺産になっている。
しかしながら、1957年に原爆医療法、1968年には原爆被爆者特別措置法を勝ち取り、その後1994年に一本化された被爆者援護法においても、被団協が追求した国家の戦争責任を認める「国家補償」の精神に基づく援護法とはならなかった。国家が戦争責任を認めないことに被爆者たちの怒りがどれほどのものであったかを推察し、共感を表明するところである。
核被害、戦争被害の犠牲者は世界の殆どの地で、権力者の植民地主義、圧政による先住民をはじめとする弱き立場の民衆に及んできた。日本のアジアへの侵略により朝鮮韓国の多くの民が原爆被害者となったように。被爆者運動の先人たちの闘いの中でも孫振斗裁判のように闘われてきた。
ノーベル平和賞の授賞理由には、被爆者運動が、核をタブー化した証言活動などの努力を評価しつつも、核被害者が自分たちへの国家の援護を求めてきた被爆者援護活動というもう一つの柱についての言及がなされていないのは残念であるが、これは日本における被爆者を中心とする私たちが引き継ぐべき課題であろう。次なる核被害者を生み出さないための闘いの原則として。
ノーベル平和賞の授賞をうけ、私たちヒロシマは今後もさらに独自に歩み続けていく。
私たちは、核被害者である先達たちが、孤独な、地を這う運動として出発し闘う中で認識し、向き合うべき対象を全ての核被害に向けてきたことに学び、核被害が核戦争における核兵器による被害にとどまらず、現在進行形で増え続けている核の被害、すなわちウラン鉱山採掘に始まり、核兵器、原発用に用いるウランの精錬、濃縮過程、2000回を超える核実験、原発事故による核被害、核開発利用のあらゆる段階で引き起こされている人間、環境の汚染に対し向き合い、あらゆる核を否定する反核運動をすすめていく。核の利用をやめない限り人類に未来はないことを再確認する。
また、原爆被爆者対策基本問題懇談会が1980年答申で、「戦争被害は国民が等しく受忍しなければならない」とした、いわゆる「受忍論」「被曝線量などの科学的根拠の必要論」は、核被害を矮小化し隠蔽化するもので、われわれが乗り越えなければならない大きな課題である。
HANWAは、2025年被爆80周年を迎えるにあたって、核兵器廃絶の闘いとともに、核のあらゆる利用サイクルを廃絶する闘いを担っていく決意をあらたにする。TPNW発効4周年の1月22日には1500本のキャンドルで、亡き核被害者の霊と共に”核と人類は共存できない”、”人類は生きねばならぬ!”と原爆ドームから世界にアピールすることに始まり、10月には、世界各地の核被害者を結集して「核の無い未来を!世界核被害者フォーラム」をヒロシマで開催する。ノーベル平和賞授賞に敬意と連帯で応え、ノーベル委員会委員長からも力強いメッセージを期待する。
ヒロシマの先人の“遺言”「人間的原子の連鎖反応が、物質的原子の連鎖反応を越えねばならぬ」に習い、世界民衆の連帯の連鎖反応の力により、核エネルギーの連鎖反応で生み出される巨大な力に打ち勝とうと世界に呼びかける。
フリードネス委員長が言及したように、ヒロシマから世界に普遍化してきた「核と人類は共存できない」という理念を共有し、連帯しよう。
2024年11月26日
核兵器廃絶をめざすヒロシマの会(HANNWA)
被団協が国家補償による被爆者援護の要求と原水禁運動を両輪としてきたとし、「この理念は、先達からの遺産になっている」と強調した。ただ、国家補償は実現しておらず被爆者たちの怒りに共感を表明。その上で、「核の利用をやめない限り人類に未来はないことを再確認する」と訴えている。
(2024年11月27日朝刊掲載)
声明全文は以下です。
ノーベル平和賞の日本被団協への授賞についてのHANNWA声明 「核と人類は共存できない」を世界共通の理念に!
2024年ノーベル平和賞は日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)に授与された。ヒバクシャへの授賞を英断された勇気ある選定に敬意を表明する。
ノルウェー・ノーベル委員会フリードネス委員長は、授賞理由を発表するスピーチやインタビューにおいて、次のように述べた。
・・・1945年8月に、アメリカが広島、長崎に投下した2発の原爆によって、未曽有の人間的悲惨の極みをもたらした無差別大量虐殺と、地獄を生きのびた人々のケロイドや放射線障害による苦難は、長く覆い隠され顧みられずにきた。1956年、地元の被爆者団体は太平洋での核実験の被害者と共に自ら立ち上がり、日本原水爆被害者団体協議会を結成した。人類の文明を破壊する核の壊滅的な非道徳性の実態について身をもって証言し、この80年間核戦争の危機から何とか人類を守るため闘ってきた比類なき証人たちの組織である。
現在、世界で惹き起こされている戦争で、まさに核が使われようとしている危機にある時、我々が被爆者の意志を引き継ぎ、核と人類は共存できないことを確認しよう。・・・
私たちは、被爆者が、想像を絶する苦しみの中で、自らを救い、同時に人類をも救おうと決意し、血を吐く思いで闘い続け斃(たお)れていった先人たちの意志に学び、このノーベル平和賞が示した巨大な核権力との闘いに、あらためて勇気を奮い起こさなければならない。
日本被団協は、広島・長崎の被爆者が、1952年までは戦後占領軍のプレスコードの中にあっても、様々な被爆者のグループを作り、お互いに寄り添い支え合いながら、生活苦や病苦、肉親たちを喪失した悲嘆から、自ら国に被爆者援護を求めて立ち上がり、結集していった。
1954年のビキニ環礁におけるブラボー水爆実験により、第五福竜丸をはじめとする多くの漁船団は死の灰をかぶり、大きな犠牲をこうむった。核実験の被害を目撃した日本、世界の民衆は、原水爆禁止の国際的な運動に立ち上がり、一挙に大きな力を獲得して、1955年に第1回の原水爆禁止世界大会を開催し、被爆者たちは初めて世界に、原爆により受けた痛苦のさまを訴えた。
1956年3月には広島県被団協を結成して、同年8月までに被爆者の全国調査に奔走し、15県に被爆者組織を立ち上げ、第2回原水爆禁止世界大会において日本被団協を結成するに至った。その後、全国に網の目を張って強力な組織を作り上げていった。結成宣言『世界へのあいさつ』で、「かくて私たちは自らを救うとともに、私たちの体験をとおして人類の危機を救おうという決意を誓い合った」と、発信したのだった。
それは、日本被団協が当初から掲げてきた運動の理念と言われる「国家補償の理念にもとづく被爆者援護法の要求運動と原水爆禁止運動を車の両輪とする」というものである。この理念は、現在も取り組まれ続けている世界の核被害者の運動に引き継がれている先達からの遺産になっている。
しかしながら、1957年に原爆医療法、1968年には原爆被爆者特別措置法を勝ち取り、その後1994年に一本化された被爆者援護法においても、被団協が追求した国家の戦争責任を認める「国家補償」の精神に基づく援護法とはならなかった。国家が戦争責任を認めないことに被爆者たちの怒りがどれほどのものであったかを推察し、共感を表明するところである。
核被害、戦争被害の犠牲者は世界の殆どの地で、権力者の植民地主義、圧政による先住民をはじめとする弱き立場の民衆に及んできた。日本のアジアへの侵略により朝鮮韓国の多くの民が原爆被害者となったように。被爆者運動の先人たちの闘いの中でも孫振斗裁判のように闘われてきた。
ノーベル平和賞の授賞理由には、被爆者運動が、核をタブー化した証言活動などの努力を評価しつつも、核被害者が自分たちへの国家の援護を求めてきた被爆者援護活動というもう一つの柱についての言及がなされていないのは残念であるが、これは日本における被爆者を中心とする私たちが引き継ぐべき課題であろう。次なる核被害者を生み出さないための闘いの原則として。
ノーベル平和賞の授賞をうけ、私たちヒロシマは今後もさらに独自に歩み続けていく。
私たちは、核被害者である先達たちが、孤独な、地を這う運動として出発し闘う中で認識し、向き合うべき対象を全ての核被害に向けてきたことに学び、核被害が核戦争における核兵器による被害にとどまらず、現在進行形で増え続けている核の被害、すなわちウラン鉱山採掘に始まり、核兵器、原発用に用いるウランの精錬、濃縮過程、2000回を超える核実験、原発事故による核被害、核開発利用のあらゆる段階で引き起こされている人間、環境の汚染に対し向き合い、あらゆる核を否定する反核運動をすすめていく。核の利用をやめない限り人類に未来はないことを再確認する。
また、原爆被爆者対策基本問題懇談会が1980年答申で、「戦争被害は国民が等しく受忍しなければならない」とした、いわゆる「受忍論」「被曝線量などの科学的根拠の必要論」は、核被害を矮小化し隠蔽化するもので、われわれが乗り越えなければならない大きな課題である。
HANWAは、2025年被爆80周年を迎えるにあたって、核兵器廃絶の闘いとともに、核のあらゆる利用サイクルを廃絶する闘いを担っていく決意をあらたにする。TPNW発効4周年の1月22日には1500本のキャンドルで、亡き核被害者の霊と共に”核と人類は共存できない”、”人類は生きねばならぬ!”と原爆ドームから世界にアピールすることに始まり、10月には、世界各地の核被害者を結集して「核の無い未来を!世界核被害者フォーラム」をヒロシマで開催する。ノーベル平和賞授賞に敬意と連帯で応え、ノーベル委員会委員長からも力強いメッセージを期待する。
ヒロシマの先人の“遺言”「人間的原子の連鎖反応が、物質的原子の連鎖反応を越えねばならぬ」に習い、世界民衆の連帯の連鎖反応の力により、核エネルギーの連鎖反応で生み出される巨大な力に打ち勝とうと世界に呼びかける。
フリードネス委員長が言及したように、ヒロシマから世界に普遍化してきた「核と人類は共存できない」という理念を共有し、連帯しよう。
2024年11月26日
核兵器廃絶をめざすヒロシマの会(HANNWA)