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原爆をつくるな つくるなら 花をつくれ 谷川俊太郎さん 原水禁運動激励

1960年世界大会 募金帳に寄稿

 戦後日本を代表する詩人で今月、92歳で亡くなった谷川俊太郎さんは、初期の原水爆禁止運動に「言葉の力」で協力していた。1960年、東京で開かれた第6回原水禁世界大会の開催費用を募る「国民募金帳」に、匿名で詩を寄稿。「核兵器反対の思いを抱く一人一人に届く言葉を寄せてくれた」―。募金帳の実物を保管する第五福竜丸平和協会(東京)顧問の山村茂雄さん(92)は証言し、感謝を込めて振り返る。

 山村さんは谷川さんの訃報を知り、都内の自宅で保管していた募金帳の実物をあらためて手に取った。二つ折りの中面、記されているのは次の短い詩だ。

 原爆をつくるな

 つくるなら
 花をつくれ
 つくるなら
 家をつくれ
 つくるなら
 未来をつくれ

   戦争にちからはかせない
 だが
 平和のためになら!

   作者の署名はないが、「原水爆禁止日本協議会(原水協)の宣伝技術グループに参加していた谷川さんの詩」と山村さんは証言する。

 59年春、山村さんが勤めていた原水協情宣部に付属する形で生まれた同グループは、代表が詩人の関根弘で、美術評論家の瀬木慎一、デザイナーの粟津潔(いずれも故人)らをコーディネーターに、行事などの企画ごとに各部門のクリエーターを迎えてポスターやパンフレットなどの宣伝物を作った。

 「谷川さんは、先輩格の関根さんに連れられて会合に顔を出したと思う。関根さんが『俊ちゃん、頼むよ』といった感じで声をかけ、その場で書いた詩が採用された」と山村さん。

 募金帳は、大会の事前会合、協力団体の職場、原水協の地方組織などで広く配られ、経費捻出に役立てられた。「原爆をつくるな/つくるなら/花をつくれ」のフレーズは当時、運動の合言葉のようになったという。

 原水禁運動は63年の第9回大会で、分裂につながる対立が決定的となる。宣伝技術グループも翌年、活動を止めるが、山村さんは「初期の運動は第五福竜丸事件の後、広範な国民に野火のように広がった原水禁署名運動の継続であり、谷川さんのシンプルで短い詩は、長々とした呼びかけ文よりもはるかに力になった」と振り返る。「日本被団協のノーベル平和賞受賞と合わせ、運動の初心を思い起こさせてくれる」と感慨を深めた。(道面雅量)

初期の原水爆禁止運動
 1954年、日本のマグロ漁船第五福竜丸が米国の水爆実験に被災した事件を機に、原水爆の禁止を求める署名運動が全国的に広まり、翌年に広島市で第1回原水禁世界大会が開かれた。日本被団協は56年、長崎市での第2回大会に合わせて結成された。65年に原水協とは別に原水禁国民会議ができ、大会も別々に開いていく。

(2024年11月27日朝刊掲載)

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