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連載・特集

この人の〝反核〟 <10> 福井芳郎(洋画家、1912~74年) 「宿命」背負い原爆を記録

軽妙洒脱の画風に本領

 福井芳郎は、戦中期を挟んで広島の洋画壇をリードした画家。広島市で軍務中に被爆し、戦後、市内外で発表した「原爆記録画」シリーズの反響が大きかったことから、「原爆画家」の呼び名が定着した。

 一方で、62歳での死去に際して寄せられた識者コメントや、没後に画業を回顧した批評には、異論めいた言葉が少なくない。

 「およそ原爆記録画など描くべき画家ではなく、別の場所が与えられればもっといい仕事をした人だった」(放送作家の故吉田文五さん)、「もし被爆せず原爆記録画を描かなかったならば、好きであったルノアールのように色彩豊かで明るく、幸福な作品を数多く残していたであろう」(広島女学院大名誉教授の原田佳子さん)…。

 原爆画家ではあっても、そこに押し込めようのない「画家」そのものの才気や魅力を、福井は豊かに発していた。

 福井は明治の末年、広島市段原(現南区)に生まれた。絵好きが高じて大阪美術学校に進むと、在学中の1928年、16歳にして帝展(帝国美術院展覧会)入選を果たし、注目を浴びる。31年ごろの帰郷を挟んで計5回の入選を重ね、山路商(1903~44年)たちと広島洋画研究所を設立するなど、若くして地元洋画壇の中枢を担った。

 ただ、その若き日の大半は戦中と重なっている。20歳以降およそ2年おきに、主に衛生兵としての軍務と画家としての日常を繰り返し、太平洋戦争では陸軍の病院船で南方戦線にも出た。

 福井の長男でアートディレクターの健二さん(75)=西区=は、父について「勇ましいタイプではなく、戦争画は描いていない。ノンポリ(政治運動に無関心)でタンゴやシャンソンを愛する趣味人ぶりは、戦前からだったと思う」と話す。

 原爆が投下された45年8月6日は地上部隊の救護班に属し、西観音町(西区)にいた。爆心地から約1・5キロ。倒壊した建物の下敷きになり、軍医と戦友に助け出されたことを手記につづっている。

 被爆の惨状を現場で描いたり、記憶の鮮やかなうちに描き起こしたりしたスケッチも残した。その生々しさは、いつか絵に仕上げねばという使命感につながったようだ。52、53年に「原爆記録画」と題した6点の大作を描き継ぐ。

 全身やけどを負った子どもたちと教師の群像「幼子」、黒い雨を浴びる母子と女子学生を描いた「驟雨(しゅうう)」、赤茶色に膨れ上がった焼死体が転がる「その翌日の朝」…。福井は「地球上のすべての色彩がひと皮めくられて、この世ではじめて見る色が出現した」と振り返っている。光あふれる瀬戸内の風景や海の幸、裸婦を好んで描いた福井の画業の中では、位置付けの難しい連作が生まれた。

 「本領発揮の分野ではないが、描くことから逃げられない絵だったのだろう。立ち会った者の宿命として」と健二さんは言う。

 福井は50歳を前にした61年、憧れだったフランスに渡る。約3カ月滞在し、パリの街や人を伸び伸びと描いた。そして68年ごろから再び、原爆をテーマに大作に挑む。被爆の影響が考えられる体調不良が続き、糖尿病などを患う時期に当たる。

 その一つ「ヒロシマの怒り」(68年)は、踊るような骸骨の群れが原爆ドームを囲む。福井に師事した美術家の田谷行平さん(82)=西区=によると、福井は入院先の病院で見た骨格標本にいたく興味を引かれ、「ついスケッチして絵にした」と話していた。「根っからの『絵描き』なんですよ」

 この晩年の原爆シリーズは、激しい色彩の「原爆記録画」と異なり、白を基調とする。「当時の福井先生は視力が弱ってきていて、その影響もあるかも」と田谷さん。踊る骸骨の筆致には、福井ならではの軽妙洒脱(しゃだつ)が宿る。「タイトルには合わないが、楽しんで描いた気配がある。いつも通りに」と評した。

 もしかすると、福井にとって絵を楽しんで描くことが、自らの命まで奪おうとしている原爆への復讐(ふくしゅう)であり「怒り」の表明だったかもしれない。「画家」福井芳郎の本領に思える。(道面雅量)

ふくい・よしろう
 中国新聞で1949~61年の間に連載された「がんす横丁」シリーズのカットなど、挿絵の分野でも味わい深い筆致が愛された。57年、新協美術会の創立メンバーに。16歳の時の帝展初入選作「蓮」は、広島県立美術館(広島市中区)で開催中の所蔵作品展(12月24日まで)に展示されている。

(2024年11月28日朝刊掲載)

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