[ヒロシマドキュメント 1945年] 11月 米軍医 医学資料を「接収」
24年11月28日
1945年11月。原爆の人体影響を調べる「日米合同調査団」が活動を続けていた。広島班は、東京帝国大(現東京大)の医学者や米軍の軍医たち総勢約50人。10月12日に広島市内に入った。
調査団は米軍側が本格的な医学調査に向け、同大の都築正男教授に働きかけて設けた。米軍主導ながら「合同」にしたのは狙いがあった。
9月22日、東京での初会合で米軍医側の責任者、オーターソン大佐がこう述べた。「資料入手のためには日本側の全面的協力を期待する」。調査団に軍医中佐として参加したアヴェリル・リーボウ氏が著書「災害との遭遇―広島の医学日記」(65年刊)に記す。
原爆の殺傷力を調べる上で被爆間もない時期の医学資料は欠かせず、米軍側は日本側がすでに持つ病理標本や解剖記録に強い関心を持った。リーボウ氏は資料を求め、医学者と面会を重ねた。
うち一人が、広島県立医学専門学校(現広島大医学部)の玉川忠太教授。8月29日から広島逓信病院で亡くなった被爆者の病理解剖をしていた。11月29日に会い「剖検の材料を分けてくれた」(「医学日記」)。
連合国による占領が明けて2年後の54年に、玉川さんが本紙に語った談話記事によれば、当初は申し出を拒絶した。だが、日本は占領される側。結局「心配する人々の忠告」で資料提供に応じた。
リーボウ氏は京都帝国大(現京都大)の病理学者、天野重安助教授とも面会。「ややためらったのち」、同大の調査で得られた病理標本の提供に応じたと「医学日記」にある。天野さんは後に、標本が強制的に持ち去られ「あり得べからざる不快を味わされた」(54年の手記)とつづった。
同大の調査班は9月の枕崎台風による土石流で11人が命を落とし、病理解剖をした杉山繁輝教授も含まれた。天野さんは悔しさをこうも記す。「苦心した剖検標本や血液標本が、このようにして戦利品同様の取扱いをうけた」(編集委員・水川恭輔)
(2024年11月28日朝刊掲載)
調査団は米軍側が本格的な医学調査に向け、同大の都築正男教授に働きかけて設けた。米軍主導ながら「合同」にしたのは狙いがあった。
9月22日、東京での初会合で米軍医側の責任者、オーターソン大佐がこう述べた。「資料入手のためには日本側の全面的協力を期待する」。調査団に軍医中佐として参加したアヴェリル・リーボウ氏が著書「災害との遭遇―広島の医学日記」(65年刊)に記す。
原爆の殺傷力を調べる上で被爆間もない時期の医学資料は欠かせず、米軍側は日本側がすでに持つ病理標本や解剖記録に強い関心を持った。リーボウ氏は資料を求め、医学者と面会を重ねた。
うち一人が、広島県立医学専門学校(現広島大医学部)の玉川忠太教授。8月29日から広島逓信病院で亡くなった被爆者の病理解剖をしていた。11月29日に会い「剖検の材料を分けてくれた」(「医学日記」)。
連合国による占領が明けて2年後の54年に、玉川さんが本紙に語った談話記事によれば、当初は申し出を拒絶した。だが、日本は占領される側。結局「心配する人々の忠告」で資料提供に応じた。
リーボウ氏は京都帝国大(現京都大)の病理学者、天野重安助教授とも面会。「ややためらったのち」、同大の調査で得られた病理標本の提供に応じたと「医学日記」にある。天野さんは後に、標本が強制的に持ち去られ「あり得べからざる不快を味わされた」(54年の手記)とつづった。
同大の調査班は9月の枕崎台風による土石流で11人が命を落とし、病理解剖をした杉山繁輝教授も含まれた。天野さんは悔しさをこうも記す。「苦心した剖検標本や血液標本が、このようにして戦利品同様の取扱いをうけた」(編集委員・水川恭輔)
(2024年11月28日朝刊掲載)