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社説・コラム

[歩く 聞く 考える] 特別論説委員 岩崎誠 「模擬原爆」を語り継ぐ 米核戦略の実態 さらに解明を

 被爆80年が迫る。米国の原爆投下を問い直す中で、忘れたくない史実がある。核兵器の実戦使用に際し、周到かつ非情な予行演習を繰り返した「模擬原爆」である。

 日本の主要都市の焼夷(しょうい)弾空襲などと別に、米軍は原爆投下に向けて改造した15機のB29などの専門部隊「第509混成群団」を極秘裏に訓練させていた。テニアン島を拠点に「パンプキン」と呼ばれた49発の模擬原爆を1945年7~8月に18都府県に落とす。

 長崎に投下した量産型のプルトニウム原爆「ファットマン」と同型、同重量。核物質は搭載しない高性能爆弾であり、約400人の犠牲者が出た。米軍資料から市民団体が存在を掘り起こして33年、実態を解明して語り継ぐ営みが、ここにきて活発になっている。

 茨城県北茨城市磯原町に足を運んだ。7月20日に建立された碑を見るためだ。「民忘るべからず」と大書した文字が力強い。79年前の同じ日、つまり広島原爆の17日前の午前7時55分にパンプキンが日本で最初にこの地に落ちた。

 異形の爆弾をかたどった記念碑はこう記す。「広島、長崎の壮絶な原爆被害のはじまりはここ北茨城市にあった」。裏面に両被爆地と模擬原爆の全投下地を刻んだ地図がある。農業を営む野口友則さん(52)と親類の神永峰敬(みねひろ)さん(86)が手弁当で建立した。

 B29が飛来し、山中に大きな爆弾を落としたこと自体は地元の記憶に残っていた。幸い死傷者がなく、模擬原爆だったとは長く知られていなかったが、目撃者だった野口さんの父の証言などから調査が動き始めた。4年前に死去した父の思いを継いだ野口さんは着弾によるクレーター跡の位置を特定する。現在は大規模な太陽光発電施設があるため建立は少し離れた場所に決め、地元で名高い石工である神永さんが碑を手がけた。

 各地の空襲被害に隠れがちな模擬原爆の秘史。広島、長崎とはひとつながりだと、野口さんは考えている。原爆被害を身近に感じ、核兵器使用を否定する心を持ってもらうのが碑の目的である。

 行動力あふれる若い世代の調査も続いている。神戸市の神戸大キャンパスで大学院法学研究科修士課程の西岡孔貴さん(27)に会った。

 東京の大学生だった7年前、広島の原爆資料館で模擬原爆の投下地を示すパネルに興味を持った。大学院に進学して神戸に来たのを機に、この街に7月24日に落とされたパンプキン4発のうち、投下地点が分からない1発について調べ始めた。投下機は広島原爆と同じエノラ・ゲイとみられる。

 目撃者の日記や終戦後の航空写真で着弾点を推定。米軍資料を長く調査する元徳山高専教授で「空襲・戦災を記録する会」の工藤洋三事務局長(74)の協力を得て昨年末に六甲山系の摩耶山を歩き、探知機で模擬原爆の一部とも考えられる金属片8個を発見する。

 さらに研究する有志で「パンプキン爆弾を調査する会」を発足させ、この金属片の組成を他の投下地に残る模擬爆弾などと比較する科学分析の費用100万円をクラウドファンディングで募った。実物を見せてもらい、歴史の空白を埋める熱意を頼もしく思った。

 模擬原爆の調査や継承にはさまざまな立場の人々が携わる。7月26日に7人が犠牲になった大阪市東住吉区田辺では、パンプキンの爆風で本堂が傾いた真宗大谷派の恩楽寺が担う。5年前に開発で行き場を失った投下跡の追悼碑を山門に移し、毎年の追悼式に加えて寺のウェブサイト上に「模擬原子爆弾資料館」を開設した。

 東京都西東京市では元教員らの「西東京に落とされた模擬原爆の記録を残す会」が冊子を発行するなど地道な活動が続く。同市柳沢の住宅地の小さな公園が死者3人を出した7月29日のパンプキンの投下地。市と折衝し、ここが着弾点である事実が掲示板の下の方に6年前、やっと表示された。

 立命館大衣笠総合研究機構の鈴木裕貴研究員は7月24日に滋賀・大津市の東レ工場で16人が死亡した模擬原爆を検証する。1次資料である被害の報告書が同社倉庫に残ることを確認し、実態を伝えるシンポジウムをこの夏企画した。

 いわば点と点の活動は、一つのネットワークのように支え合っている。その原点が愛知県春日井市の元中学教員、金子力さん(73)らの努力にあるのは間違いない。今は模擬原爆の常設展示がある名古屋市の民間平和資料館「ピースあいち」で運営委員を務める。

 「春日井の戦争を記録する会」の仲間と8月14日に春日井に4発が落ちた謎の爆弾を追っていた。国立国会図書館にある米軍資料から大発見をしたのが91年のこと。第509混成群団の出撃任務一覧表や地図である。それを手に模擬原爆の投下地を歩き、地元の証言や資料と重ね合わせる調査の流れをつくった。もちろん神戸の西岡さんたちにも協力している。

 一連の作戦を読み解くのは簡単ではない。春日井などには終戦前日にパンプキンを投下し、計8人が死亡した。日本降伏を前にした大規模爆撃に加わる形で通常爆弾としてパンプキンを使用し、効果を検証したと考えられる。一方で3発目、4発目の原爆使用が頭にあった可能性は十分にある。

 金子さんは核ミサイルのない時代に核兵器を運搬する手段を、この専門部隊が担ったことを重視する。日本で模擬原爆の投下を繰り返したことが戦後も続く米国の核戦略を支えたとの見方である。

 単に事実の掘り起こしを進めるだけでなく、模擬原爆が何を意味するのかを「巨視的、思想的」に考えるべきだ―。立命館大の鈴木研究員もそう指摘する。核時代の幕開けとなった広島・長崎への原爆投下と一体化した作戦の実態はさらに深く検証されるべきだ。

 それなのに広島と長崎の側では模擬原爆への関心が高かったとは言えまい。今回の取材では、足元の歴史から人類初の核被害の意味を問い、核廃絶を願う強い姿勢を共通して感じ取った。被爆地からも呼びかけ、各地の調査・継承の営みと手を携えて思いを一つにする手だてがもっと必要と思う。

 <メモ>原爆投下の手順に慣れるため1945年7月20日から8月14日まで18都府県の工場などを目標に投下した。計49発のうち愛知県が最多の8発、中国地方は宇部市に3発。首都では東京駅八重洲口付近にも落ちた。死傷者は計1600人以上。神戸、徳島、福島の3カ所は着弾点が分かっていない。残った爆弾は海洋投棄された。

(2024年11月28日朝刊掲載)

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