[ヒロシマドキュメント 1945年] 11月 熱線調査 服の色に着目
24年11月29日
1945年11月。「日米合同調査団」として広島市内に滞在した米軍医中佐のアヴェリル・リーボウ氏は、原爆の熱線の影響を調べるために市民の被爆時の衣服も集め、焼け方に注目した。
10日には「特に注目すべき物」をカラー写真で記録。その一つの半袖ブラウスは色による熱吸収の違いで白地部分は焼けず、バラの花柄が焼け落ちていた。「濃赤色のバラの花びらの部分が熱を吸収している」(65年刊の著書「災害との遭遇―広島の医学日記」)。
このブラウスの写真は4枚が残り、うち1枚に「SHIBATA」と札が置かれている。今100歳で神奈川県大磯町に住む山本(旧姓柴田)静江さんが米国在住の母から送られた布で仕立て、21歳で被爆した時に着ていた。
祖父が広島から移民として米国に渡り、24年に米ロサンゼルスで生まれた。宿屋を営む母が仕事に追われていたため、2歳ごろに祖父と帰国。東雲町(現南区)にいた親戚と住んでいた。
8月6日は横川駅(現西区)近くの軍需工場に出勤中、爆心地の北東約1・8キロの広島駅前で突然光に包まれた。「電車の電線がショートしたのかと」。熱線にもろにさらされた左手は肌が出ていた前腕に加え、焼けた花柄の下の皮膚のやけどがひどかった。
脚もやけどして起き上がれなくなり、やがて髪も抜けた。「傷や症状がある程度治るまで3カ月ぐらいかかって」。その寝たきりの間に服の提出を求められ、詳しい経緯は覚えていないという。やけどの跡はケロイドとなって、左手を思うように曲げられなくなった。
翌年に帰国するリーボウ氏は、この服も持ち帰ったと著書に記す。同じく米国に送られた病理標本などには占領が終わった後、日本側に返された資料もあった。ただ、静江さんのブラウスは返還の記録がなく、現在の所在も分かっていない。(編集委員・水川恭輔)
(2024年11月29日朝刊掲載)
10日には「特に注目すべき物」をカラー写真で記録。その一つの半袖ブラウスは色による熱吸収の違いで白地部分は焼けず、バラの花柄が焼け落ちていた。「濃赤色のバラの花びらの部分が熱を吸収している」(65年刊の著書「災害との遭遇―広島の医学日記」)。
このブラウスの写真は4枚が残り、うち1枚に「SHIBATA」と札が置かれている。今100歳で神奈川県大磯町に住む山本(旧姓柴田)静江さんが米国在住の母から送られた布で仕立て、21歳で被爆した時に着ていた。
祖父が広島から移民として米国に渡り、24年に米ロサンゼルスで生まれた。宿屋を営む母が仕事に追われていたため、2歳ごろに祖父と帰国。東雲町(現南区)にいた親戚と住んでいた。
8月6日は横川駅(現西区)近くの軍需工場に出勤中、爆心地の北東約1・8キロの広島駅前で突然光に包まれた。「電車の電線がショートしたのかと」。熱線にもろにさらされた左手は肌が出ていた前腕に加え、焼けた花柄の下の皮膚のやけどがひどかった。
脚もやけどして起き上がれなくなり、やがて髪も抜けた。「傷や症状がある程度治るまで3カ月ぐらいかかって」。その寝たきりの間に服の提出を求められ、詳しい経緯は覚えていないという。やけどの跡はケロイドとなって、左手を思うように曲げられなくなった。
翌年に帰国するリーボウ氏は、この服も持ち帰ったと著書に記す。同じく米国に送られた病理標本などには占領が終わった後、日本側に返された資料もあった。ただ、静江さんのブラウスは返還の記録がなく、現在の所在も分かっていない。(編集委員・水川恭輔)
(2024年11月29日朝刊掲載)