[ヒロシマドキュメント 1945年] 12月 朝鮮人犠牲者 遺骨帰らず
24年12月2日
1945年12月。当時18歳の姜静子(カン・チョンジャ)さんは、広島市大手町(現中区)の広島瓦斯(現広島ガス)に勤めていた夫孫三祚(ソン・サムジョ)さん=当時(25)=の遺骨が見つからないままだった。原爆投下で数多く犠牲になった朝鮮半島出身者の一人となった。
姜さんは、日本が植民地支配していた朝鮮半島の今の韓国慶尚南道で生まれた。3歳の時に東京で働いていた父の元へ母と渡り、45年初め、設計技師をしていた孫さんと結婚した。
「会社で支給されたパンがあると、一つは自分で食べて、残りの一つは私に持ち帰ってくれる、そんなやさしい人でした」(2021年刊の「語り継ぐ ヒロシマ・ナガサキの心」収録の証言)。千田町(現中区)の寮で送っていた新婚生活は、8月6日、わずか7カ月で終わった。
孫さんは爆心地近くの本社に出勤していたか、市中心部の建物疎開作業に動員されていたとみられる。実弟が捜したが、行方は分からなかった。
姜さんも町内会の呼びかけで寮近くでの建物疎開作業をしていて被爆し、大やけどを負った。呉市の孫さんの親戚宅で療養した後、帰国。「二度目の結婚のような」生活を始めた相手も事故死した。再び日本へ渡り、各地を転々とし、住み込みの職などで生計を立てた。被爆者への差別を恐れ、結婚も出産も諦めた。
2016年、住んでいた京都から約70年ぶりに広島を訪ねた。デイサービスなどを利用していたNPO法人エルファ(京都市)で若者たちに被爆体験を語るうち、亡夫への思いが募った。広島ガスの慰霊碑や韓国人原爆犠牲者慰霊碑を巡った。
同行したケアマネジャーの李英玉(リ・ヨンオク)さん(43)は「慰霊碑に着いた途端、『遅くなってごめんなさい』と手を合わせて泣き崩れていました。71年ぶりに夫婦で会話をしているようでした」。姜さんは2人の新婚写真をずっと手元に置いていた。2022年、95歳で亡くなった。(山下美波)
(2024年12月2日朝刊掲載)
姜さんは、日本が植民地支配していた朝鮮半島の今の韓国慶尚南道で生まれた。3歳の時に東京で働いていた父の元へ母と渡り、45年初め、設計技師をしていた孫さんと結婚した。
「会社で支給されたパンがあると、一つは自分で食べて、残りの一つは私に持ち帰ってくれる、そんなやさしい人でした」(2021年刊の「語り継ぐ ヒロシマ・ナガサキの心」収録の証言)。千田町(現中区)の寮で送っていた新婚生活は、8月6日、わずか7カ月で終わった。
孫さんは爆心地近くの本社に出勤していたか、市中心部の建物疎開作業に動員されていたとみられる。実弟が捜したが、行方は分からなかった。
姜さんも町内会の呼びかけで寮近くでの建物疎開作業をしていて被爆し、大やけどを負った。呉市の孫さんの親戚宅で療養した後、帰国。「二度目の結婚のような」生活を始めた相手も事故死した。再び日本へ渡り、各地を転々とし、住み込みの職などで生計を立てた。被爆者への差別を恐れ、結婚も出産も諦めた。
2016年、住んでいた京都から約70年ぶりに広島を訪ねた。デイサービスなどを利用していたNPO法人エルファ(京都市)で若者たちに被爆体験を語るうち、亡夫への思いが募った。広島ガスの慰霊碑や韓国人原爆犠牲者慰霊碑を巡った。
同行したケアマネジャーの李英玉(リ・ヨンオク)さん(43)は「慰霊碑に着いた途端、『遅くなってごめんなさい』と手を合わせて泣き崩れていました。71年ぶりに夫婦で会話をしているようでした」。姜さんは2人の新婚写真をずっと手元に置いていた。2022年、95歳で亡くなった。(山下美波)
(2024年12月2日朝刊掲載)