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連載・特集

歩み 被団協ノーベル平和賞 <2> 援護の要求

「まどうてくれ」が原点

国家補償 廃絶の道と訴え

 「もはや戦後ではない」と経済白書がうたった1956年。被爆者にはまだ、国の援護が届いていなかった。日本被団協は結成翌月の9月の代表者・理事会で「原爆被害者援護法案要綱」を検討し、被爆者の治療費の「全額国庫負担」や国費による健康管理、犠牲者への弔慰金と遺族年金制度の制定を盛り込んだ。

 被爆者の声や原水爆禁止運動を背景に、国も被爆者対策を考えてはいた。被団協初代事務局長に就いた藤居平一(96年死去)は大蔵省にいた広島高等師範学校付属中(現広島大付属中高)の後輩の助けを借りるなど奔走。57年に原爆医療法が施行され、被爆者健康手帳の交付や年2回の健康診断が始まった。

 被爆者が初めて手にした法を藤居は評価しつつも「問題はあらゆる法律が完備し適用されないと解決しない」と考えた。広島弁で「まどうてくれ」(元通りにしてくれ)と唱え続けた。

 被団協は66年の「原爆被害の特質と『被爆者援護法』の要求」(つるパンフ)で政府の戦争責任を問い、国家補償を迫った。68年に手当の支給を含む被爆者特別措置法も施行されたが、犠牲者への弔慰金などはなく「不十分」と捉えた。

徹夜で座り込み

 必要な援護を整理し、73年4月に発表したのが「要求骨子」。長崎原爆被災者協議会(長崎被災協)の事務局員だった横山照子(83)は夜行列車で上京し、議論に加わった。母を胃がんで失い、父は甲状腺の具合が悪く、妹も入退院を繰り返していた。医療費が生活を苦しめ被爆者運動に関わらざるを得なかった。

 そこで全国から集まった仲間たちが「被害の補償」「生活の保障」にとどまらず、原爆の惨禍を二度と起こさない「未来の保証」を欲する姿に感化された。「自分たちのために金を求めるだけの運動ではない。私たちの命を懸けられる」と目の前が開けた。

 被団協は骨子を掲げ、73年11月に5日間、厚生省前にテントを張り徹夜で座り込む。豚汁やおにぎりの差し入れ、作家の大江健三郎(2023年死去)の激励を受けた。長崎から被爆者を送り出した横山は「みんな留置場に入れられてもやる決意だった」と振り返る。

 政府は援護拡大を渋り続けた。一般戦災者との均衡論に加え、厚生相の私的諮問機関「原爆被爆者対策基本問題懇談会」(基本懇)は80年、戦争被害を国民が等しく受忍しなければならないと示す。

受忍論に猛反発

 この受忍論に「死んだ人が犬死にになる」と被団協は猛反発した。83~84年に被爆者3690人を調査し、「再び被爆者をつくらない」という願いが共通すると確認。そのためにどうすべきか全国的な討論を重ね、84年、「原爆被害者の基本要求」にたどり着いた。

 当時の原案には書き込みがびっしり残る。事務局員として支えた栗原淑江(77)は「書き直しは20回は超えた」と証言する。原爆被害を国家の責任で償うことこそが核兵器廃絶の誓いになる―。被団協が結成28年で得た「運動の憲法」は今も揺るがない。ただ、その間に不可分一体だった原水禁運動は窮地に陥っていた。=敬称略 (宮野史康)

(2024年12月2日朝刊掲載)

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