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[ヒロシマドキュメント 1945年] 12月 死者7万人超 県が報告

 1945年12月。広島県は、内務省に提出する11月30日時点の「広島市空襲被害に関する報告」をまとめた。死者7万8150人、行方不明1万3983人に上り、原爆の被害者は計30万6千人を超えるとした。重傷者(9428人)、軽傷者(2万7997人)のほかに、けがはなくても家を壊された人たちが被害者に数えられている。

 人数は、県警察部が県内27署から得た回答に基づく。原爆投下後、県内の警察官はおびただしい遺体の検視に当たっており、その際に作った調書や市町村の火葬認可書などの記録を基に実数で報告されたという。

 県警察部は9月、8月末時点の死者数を6万6千人、行方不明1万人と公表していた(9月10日付中国新聞)。11月30日時点の報告では、9月以降も続いた放射線の影響を「微傷ヲモ負ハザル健全者中ヨリ其(そ)ノ後ニ至リ所謂(いわゆる)原子爆弾症ニ依リ死亡スルモノ続出」と説明。死亡例は「現在ニ於テハ概ネ終熄(しゅうそく)セル」との見方も示した。

 報告は「調査未了」で、実際の被害者は示した人数を超えるとしていた。一つは、被爆後に県外に移った人がそこで死亡した場合を含め未集計のため。また、軍関係の被害者はもともと集計から除かれていた。

 被害者を集計した県も職員の犠牲者は1141人を数えた。広島市水主町(現中区)の庁舎は全壊し、府中町の東洋工業(現マツダ)に仮庁舎を置いて県政の再起を図った。12月12日から被爆後初の県議会を開くため、建物の一部を改造して臨時の議事堂を設けた。

 審議予定は46年度の予算案。犠牲者には予算編成に関わる内政部の部長たちも含まれ、焼失した資料もあった。後の財政課長の市川士郎さんによれば、「各部課の係員の記憶等を求めて探り足で編成する外仕方のない」(50年刊の「戦後広島県政史」)という状況だった。(山本真帆)

(2024年12月1日朝刊掲載)

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