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連載・特集

広島と映画 <5> 映画監督 山田火砂子さん 「はだしのゲン」 監督 山田典吾(1976年公開)

体験語り合い 演技に反映

 実写版「はだしのゲン」3部作は中沢啓治さんの漫画を原作とし、平和への願いを込めて製作された。1作目は製作協力、2、3作目はプロデューサーとして関わった。夫で監督の山田典吾は1943~45年は軍隊におり、私自身の戦時中の記憶が随所に取り入れられている。

 45年5月、東京・山手大空襲で逃げ遅れる経験をした。布団を水浸しにして必死にかぶったが、布団が乾いて火が付いたら間違いなく焼け死ぬ状況だった。親切なおじさんが壊れたバケツと荒縄を拾ってきて、川の水をくんでは自分にかけ、私の布団にもかけてくれた。全く見知らぬ人のおかげで九死に一生を得た。

 ゲンの母親役を演じた左幸子さんから「(空襲の時は)どうやって逃げたの」と聞かれ、この体験を話した。私が逃げた時と同じ姿で演じているのは、そのためだ。空襲の体験などは、よくこうして語り合ったり、教え合ったりしていた。

 女性ウエスタンバンドを組んでいた頃、地方へ行った時も宿屋で空襲の話になった。みんな真剣に聞き入っていたが、エレキギター担当で広島市出身の舟本信子さんが「そんな子供の遊びみたいな話を聞いてられない」といきなり話の中に入ってきた。女学校3年だった彼女は8月6日、生理で学校を休んで助かったという。原爆被害の悲惨さにみんな泣き出してしまった。本当に戦争は二度としたくないとしみじみ思ったのを覚えている。彼女も「ゲン」に出てくれた。

 ゲンの父親役が三国連太郎さんとあって、撮影が始まると、報知新聞が見開きを使って晴海埠頭(ふとう)で行ったロケ風景を大きく載せた。すぐに東京都から呼び出しが来た。「ごみの島」と呼び、海をコンクリートで固めてごみを捨てていた時代だ。そこに原爆ドームの模型を業者に発注し、原爆投下後のヒロシマのセットを作った。東京都からは撮影許可をもらっていたはずなのに。夫に送り出されて東京都へ出向いた私は、都職員から「メタンガスが出ている所で火器を使った撮影をするとは何事ですか。これからすぐ中止させるんですよ」と怒られた。

 現場に戻ると、スタッフが皆真っ黒になって原爆投下直後の情景を必死に撮っている。「ヨコハマタイヤを拾ってくるんだぞ。黒い煙がよく出るから」と指示が飛ぶ。「都が怒っています」と伝えても誰も聞く耳をもたない。業者は「ドームの制作費500万円ください」と騒ぐし、重い知的障害の長女が「オシッコ、オシッコ」と言っても構ってやれない。映画の中の原爆ドームを見ると涙が出る。

 ごみの島だった場所もすっかり変わり、マンションや高級車が並ぶ。死ぬのが当たり前だった世界で92歳まで生き残り、社会福祉や戦争反対をテーマにした映画を作っている。戦争は嫌い。二度と原爆を使うな。その思いは変わらない。

やまだ・ひさこ
 1932年、東京生まれ。バンド活動、舞台女優を経て映画プロデューサーに。96年、アニメ作品「エンジェルがとんだ日」で監督デビュー。最新作は「わたしのかあさん―天使の詩」。現代ぷろだくしょん社長。 はと
 1981年、大竹市生まれ。本名秦景子。絵画、グラフィックデザイン、こま撮りアニメーション、舞台美術など幅広い造形芸術を手がける。

作品データ

日本/107分/現代ぷろだくしょん
【製作・脚本】山田典吾【撮影】安承玟【美術】育野重一【音楽】渋谷毅【録音】奥山重之助【照明】山本嘉治【編集】沼崎梅子
【出演】佐藤健太、石松宏和、岩原千寿子、小松陽太郎、箕島雪弥、島田順司、曽我廼家一二三、牧伸二

(2024年11月30日朝刊掲載)

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