[ヒロシマドキュメント 1945年] 11月30日 GHQ 日本の研究制約
24年11月30日
1945年11月30日。文部省学術研究会議の「原子爆弾災害調査研究特別委員会」の第1回報告会が、東京帝国大(現東京大)であった。日本の学界の総力を挙げた研究を掲げて9月14日に設けられ、被爆地の広島、長崎で調査していた。
医学の都築正男教授、物理学の仁科芳雄博士たち各分野の代表者が現状を説明。文部省の山崎匡輔科学教育局長は「(研究で)人類文明に貢献致したい」と述べた。
これに対し、臨席した連合国軍総司令部(GHQ)の経済科学局の担当者は、ある通達を出す。「今後ノ調査研究ニ関シテハ凡(すべ)テ連合国軍当局ノ許可ヲ必要トスベキ旨ノ通達有」(林春雄委員長の関係者への12月11日付報告文書)。委員会関係の論文の印刷も当面取りやめるように求めた。
同じ文書は「調査研究上多大ノ支障ヲ来ス」ため、都築教授がGHQ側と折衝したとも伝える。本人への聞き取りを踏まえた「広島新史」(81年刊)によれば、研究が治療につながると考える都築教授は、こう訴えた。「私がここで発言している瞬間においても、多数の被爆者が次々に死亡している」「研究発表を禁止することは、人道上、許されることではない」
折衝を経て、当面46年2月から8月までの期限付きで現地調査が許可された。その後も、都築教授はGHQ側と交渉したものの、日本側には原爆被害に関する研究発表の自由が与えられない状態が続いた。GHQはすでに45年9月19日、プレスコードを発令。報道を含めて原爆被害の情報の統制を厳重に進めた。
委員会の調査研究は結局47年度で終わった。参加した研究者たちの論文をまとめた「原子爆弾災害調査報告集」が刊行されたのは、占領が明けた翌年の53年だった。(編集委員・水川恭輔)
(2024年11月30日朝刊掲載)
医学の都築正男教授、物理学の仁科芳雄博士たち各分野の代表者が現状を説明。文部省の山崎匡輔科学教育局長は「(研究で)人類文明に貢献致したい」と述べた。
これに対し、臨席した連合国軍総司令部(GHQ)の経済科学局の担当者は、ある通達を出す。「今後ノ調査研究ニ関シテハ凡(すべ)テ連合国軍当局ノ許可ヲ必要トスベキ旨ノ通達有」(林春雄委員長の関係者への12月11日付報告文書)。委員会関係の論文の印刷も当面取りやめるように求めた。
同じ文書は「調査研究上多大ノ支障ヲ来ス」ため、都築教授がGHQ側と折衝したとも伝える。本人への聞き取りを踏まえた「広島新史」(81年刊)によれば、研究が治療につながると考える都築教授は、こう訴えた。「私がここで発言している瞬間においても、多数の被爆者が次々に死亡している」「研究発表を禁止することは、人道上、許されることではない」
折衝を経て、当面46年2月から8月までの期限付きで現地調査が許可された。その後も、都築教授はGHQ側と交渉したものの、日本側には原爆被害に関する研究発表の自由が与えられない状態が続いた。GHQはすでに45年9月19日、プレスコードを発令。報道を含めて原爆被害の情報の統制を厳重に進めた。
委員会の調査研究は結局47年度で終わった。参加した研究者たちの論文をまとめた「原子爆弾災害調査報告集」が刊行されたのは、占領が明けた翌年の53年だった。(編集委員・水川恭輔)
(2024年11月30日朝刊掲載)