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[ヒロシマドキュメント 1945年] 12月ごろ 米兵捕虜収容先 跡形なく

 1945年12月ごろ。軍の施設や部隊が集まっていた広島市基町(現中区)で、中国憲兵隊司令部は跡形もなかった。爆心地から東約470メートル。被爆死した米兵捕虜の収容先の一つだった。

 一帯には中国軍管区司令部が置かれ、歩兵や砲兵、輜重(しちょう)兵などの各補充隊や陸軍病院も置かれていた。7月、広島周辺で日本軍に撃墜された複数の米軍機の乗組員が捕虜となり、西練兵場南側の中国憲兵隊司令部などに収容された。米軍が落とした原爆により、収容先や避難場所で亡くなったとみられる。

 戦後、被爆者の証言や「原爆の絵」でその死が伝えられたが、米軍は長年公式に認めなかった。「陸軍8人と海軍2人の捕虜が広島の原爆で犠牲になった」との見解を初めて示したのは83年だ。

 独自調査で、この10人に2人を加えた12人が被爆死したと結論づけたのが被爆者の森重昭さん(87)=西区。日米の資料を集め、目撃者への聞き取りや遺族との交流を続けてきた。「夫の帰りを生涯待ち続けた米兵の妻もいました」

 98年、私費で中国憲兵隊司令部の跡地のビルに銘板を設置。45年12月ごろに撮られた司令部跡の写真を掲げた。平和記念公園(中区)内に設ける案もあったが「12人の米兵が取り調べを受けた場所に置くのが供養になると思った」という。

 撃墜された米軍機の元機長で、同僚が被爆死したトーマス・カートライトさん(2015年に90歳で死去)は83年に戦後初めて広島を訪ねた。「原爆で亡くなった人々や仲間のことが甦(よみがえ)り、今さらながら生き残ったものの負い目で胸がいっぱいになってきた」(04年刊の「爆撃機ロンサムレディー号 被爆死したアメリカ兵」)。

 しばらく「広島を訪れたことに嫌悪感を抱いていた」が、森さんたちとの交流を通し、99年に再訪。銘板前で追悼した。頼まれて書いた銘板の英文解説でこう刻む。「戦争の悲劇が永遠に記憶されますように」(山下美波)

(2024年12月3日朝刊掲載)

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