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[ヒロシマドキュメント 1945年] 12月4日 物資不足 闇市が活況

 1945年12月4日。中国新聞は広島駅前(現広島市南区)の「闇市」の盛況ぶりを写真付き記事で報じた。「リュックに風呂敷といふ至極気軽な店開き、押しかける人の波」。毛布、ミカン、うどん粉と芋餡(あん)で作った代用饅頭(まんじゅう)などが次々と売れていたという。

 闇市は、戦時中から続いた公的な価格統制や配給制度を擦り抜ける「闇物資」を扱った市場を指す。物資不足で配給が少なく、生活に必要な品を得られない人たちが、場合によっては法外な値段でも頼る場となった。

 「にぎやかで復興の中心のようだった。焼け跡から鍋や銅線などの金属類を探して売ったこともあってね」。梶矢文昭さん(85)=安佐南区=は当時の駅前が目に焼き付いている。79年前、駅近くの荒神町国民学校(現荒神町小)1年だった。

 自宅近くの今の東区上大須賀町にあった分散授業所で被爆し、3年の姉文子さん=当時(9)=は命を落とした。校舎を失った同校が9月中旬ごろに「青空教室」を始めると、自宅付近の焼け跡に建てたバラックから通った。闇市は通学路にあった。

 「広島原爆戦災誌」(71年刊)によると、駅前には終戦の3日目ごろからむしろやトタン板を敷いて物を売る人が出現。12月ごろに400軒余りに達した。家がなく衰弱した子どもやお年寄りが身を寄せ、「食糧を拾ってやうやく生きてゐる」(11月22日付本紙)姿もあった。身元不詳の男性1人は11月21日、「栄養失調死」した。

 12月4日の記事は己斐地区(現西区)などにも食料を扱う闇市が現れ、「主人だけでは食へぬ暗い世相を反映してか店の主は中年のおかみさんが大半を占めてゐた」と伝えた。終戦直後、警察側は「国民生活の円滑化を図る意味あいから、闇市場に対してはある程度黙認せざるを得なかった」(71年刊の「広島県警察百年史」)という。(山本真帆)

(2024年12月4日朝刊掲載)

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