歩み 被団協ノーベル平和賞 <4> 座り込み 核実験に抗議 森滝の信念
24年12月4日
計470回 惨禍の光景が原点
「12:00 20名決行中。かなり年配の婦人が1人いる。人通り絶え、殆(ほとん)ど眠りにつく。星が1つ。明日も暑そう」「11:15 入院中を押して被爆者すわり込み。いてもたってもいられなくてとのこと」「3:15 あと3時間。しかしこの声フランスに届くか?」
ハンスト24時間
遊川和良(77)=広島市安芸区=がメモを残す。1973年8月29~30日、フランスの核実験に抗議し、被爆者や市民が平和記念公園(現中区)の原爆慰霊碑前でハンガーストライキを伴い座り込んだ。延べ170人が参加。ハンストを24時間貫いたのは13人で、原爆で姉を亡くした遊川もその一人だった。
この年の7月20日、フランスによる核実験に抗議するため17団体が慰霊碑前で座り込んだ。亡くなった被爆者の無念を背負い、慰霊碑を背にした。分裂した広島県被団協(森滝市郎理事長)ともう一つの県被団協(田辺勝理事長)も当時は歩調を合わせた。
以来、核実験のたびに二つの県被団協と共に市民が座り込みを続けている。当時26歳の遊川は、72歳の森滝が真夏の暑さの中で座り込み、終わると一人静かに帰っていく姿を脳裏に焼き付けた。「老いてなお、それだけ怒っている人を間近で見て、信念を感じた」
座り込みには「前史」がある。英国による中部太平洋クリスマス島での水爆実験を受け、吉川清(86年死去)たち数人が57年3月下旬~4月中旬に座り込んだ。62年の米国の実験計画の発表時には、広島大教授だった森滝は大学に辞表を出して臨んだ。日射病で倒れながらも4月20日から12日間続けた。
考え抜いた意義
ある日、前を行ったり来たりする少女に言われた。「座っとっちゃ止められはすまいでえ」。森滝は後に「座っていて実験をくいとめることができるのか、いったい平和運動は戦争をくいとめることができるのかという大きな質問として。自己の全存在をかけて座りこみ行動をしている私に鋭く問いかけられた」と振り返る。
考え抜き、座り込みの輪が日々広がる様子から「精神的原子の連鎖反応が物質的原子の連鎖反応に勝たねばならぬ」と悟った。94年に92歳で亡くなる半年前まで、470回以上重ねた。
森滝は45年8月6日、動員学徒を引率中に爆心地から約4キロの江波町(現中区)の工場で被爆。飛び散ったガラス片が右目に刺さり失明した。2日後、静養先の宮島(現廿日市市)から治療のため広島に戻り、惨禍を脳裏に刻んだ。次女の春子(85)=佐伯区=は「激痛で開かなかった左目をこじ開けて見た『原点』」が座り込みの原動力になったとみる。
広島での地道な抗議の傍ら、森滝は日本被団協の国際活動などで欧州やアフリカへ渡った。海外証言は56年の被団協結成前に始まっており、先駆けの一人が皆実町(現南区)で被爆して夫や子を亡くした日詰忍(94年死去)。55年3月にロンドン医師会の招きで英国を訪れ、教会での集まりでは「はるばる海を越えて伝えに来てくださった心を無にしないよう努力する」と言われたという。=敬称略 (下高充生)
(2024年12月4日朝刊掲載)