緑地帯 武部好伸 「映画」事始め+広島⑥
24年12月4日
日本の映画黎明(れいめい)期をテーマとする小説に挑戦し、面白い読み物にすべく奮闘していた2019年春、広島から1通の封書が届いた。開封すると、中国新聞セレクトの連載「広島の映画・劇場史」の記事が入っていた。同社の元記者で、広島映画史研究会の代表、山中裕文さんが執筆。明治30(1897)年4月7~18日、現在の中区小網町にあった寄席小屋、旭の席で催された、広島初の映画上映のことが詳しく記されていた。それは大阪商人の荒木和一が輸入した米エジソン社の映写機ヴァイタスコープによるものだったのだ。
当時はモノクロの無声映画しかなかったのに、着色フィルムを使い、蓄音機で人物の声と同調させていたという。いわば、カラーのトーキー映画。画期的なことだ! 迷うことなくこのくだりを小説に取り入れた。
記事の送り主は同社の論説主幹(当時)の宮崎智三さんだった。彼とのご縁は、和一の孫で広島市在住の久保田良枝さんが取り持ってくれた。彼女は、ぼくが「ケルト文化」を執筆テーマにしているのを知って、広島・アイルランド交流会に働きかけてくれ、17年11月に講演会が実現。その時、久保田さんから知人の宮崎さんを紹介してもらったのだ。
広島市留学生会館や原爆資料館の職員をしていた彼女の幅広い人脈に驚き、人生は縁の積み重ねやなぁと改めて実感。これを機に、〈広島コネクション〉がますます深まった。(作家・エッセイスト=大阪市)
(2024年12月4日朝刊掲載)
当時はモノクロの無声映画しかなかったのに、着色フィルムを使い、蓄音機で人物の声と同調させていたという。いわば、カラーのトーキー映画。画期的なことだ! 迷うことなくこのくだりを小説に取り入れた。
記事の送り主は同社の論説主幹(当時)の宮崎智三さんだった。彼とのご縁は、和一の孫で広島市在住の久保田良枝さんが取り持ってくれた。彼女は、ぼくが「ケルト文化」を執筆テーマにしているのを知って、広島・アイルランド交流会に働きかけてくれ、17年11月に講演会が実現。その時、久保田さんから知人の宮崎さんを紹介してもらったのだ。
広島市留学生会館や原爆資料館の職員をしていた彼女の幅広い人脈に驚き、人生は縁の積み重ねやなぁと改めて実感。これを機に、〈広島コネクション〉がますます深まった。(作家・エッセイスト=大阪市)
(2024年12月4日朝刊掲載)