「満蒙開拓平和通信」最終号 発行人の末広さん死去 有志が追悼特集
24年12月4日
広島市内で印刷会社を営み、今年5月に98歳で亡くなった末広一郎さんが、1人で編集・発行を続けていた冊子「満蒙(まんもう)開拓平和通信」の8号が、遺志を継ぐ人たちの手で「最終号」として発行された。印刷物や講演活動を通し、自身が体験した満蒙開拓やシベリア抑留の実情を伝え続けた末広さん。その歩みをたどる追悼特集になっている。
末広さんは現在の広島県世羅町に生まれ、14歳で「満蒙開拓青少年義勇軍」に志願した。旧満州(中国東北部)に渡ったが、肺を病み療養中に敗戦。旧ソ連によるシベリア抑留を経て1949年に帰国した。療養先の病院で出会った詩人峠三吉の勧めで印刷の道へ。原爆平和関連の多くの印刷物を手がけた。7年前からたった一人で「通信」を発行。請われて講演もし、戦争がもたらす不条理を訴えていたが、心不全で急逝した。
本号には元義勇軍の遺族や親交のあった人たちが追悼文を寄せ、在りし日の末広さんを伝える写真も掲載。毎年東京に出かけ、満蒙開拓で犠牲になった人々の慰霊祭に出席していた末広さんが、亡くなる直前の4月、碑前で語った歴史への反省や慰霊の言葉も収めた。
耳が遠くなった末広さんの講演活動を支えた次女甲島理亜美さん(59)=東京=は年譜を作成し、家族としての思い出を寄せた。「語り継いでほしいという気持ちがとても強かった。平和通信も年内に8号発行を目指していたので、こうして残せてよかった」と話す。
中心となって編集に当たった、シベリア抑留者支援・記録センター(東京)の有光健代表世話人は、義勇軍体験者がどんどんいなくなる中、「侵略や支配として行われた『満蒙開拓』の実態を伝えよう」と尽くす末広さんを間近で見てきた。「満蒙開拓は引き揚げの悲劇として記憶されるが、そもそもなぜこのようなことが起きたのか。末広さんが提起した課題を私たちは考え、継承していかねば」と語る。
B5判、65ページ。末広さんが会長を務めた西区のとき印刷で200部発行した。残部わずかだが、希望者には1部500円、送料200円で分ける。とき印刷☎082(962)5741(森田裕美)
(2024年12月4日朝刊掲載)
末広さんは現在の広島県世羅町に生まれ、14歳で「満蒙開拓青少年義勇軍」に志願した。旧満州(中国東北部)に渡ったが、肺を病み療養中に敗戦。旧ソ連によるシベリア抑留を経て1949年に帰国した。療養先の病院で出会った詩人峠三吉の勧めで印刷の道へ。原爆平和関連の多くの印刷物を手がけた。7年前からたった一人で「通信」を発行。請われて講演もし、戦争がもたらす不条理を訴えていたが、心不全で急逝した。
本号には元義勇軍の遺族や親交のあった人たちが追悼文を寄せ、在りし日の末広さんを伝える写真も掲載。毎年東京に出かけ、満蒙開拓で犠牲になった人々の慰霊祭に出席していた末広さんが、亡くなる直前の4月、碑前で語った歴史への反省や慰霊の言葉も収めた。
耳が遠くなった末広さんの講演活動を支えた次女甲島理亜美さん(59)=東京=は年譜を作成し、家族としての思い出を寄せた。「語り継いでほしいという気持ちがとても強かった。平和通信も年内に8号発行を目指していたので、こうして残せてよかった」と話す。
中心となって編集に当たった、シベリア抑留者支援・記録センター(東京)の有光健代表世話人は、義勇軍体験者がどんどんいなくなる中、「侵略や支配として行われた『満蒙開拓』の実態を伝えよう」と尽くす末広さんを間近で見てきた。「満蒙開拓は引き揚げの悲劇として記憶されるが、そもそもなぜこのようなことが起きたのか。末広さんが提起した課題を私たちは考え、継承していかねば」と語る。
B5判、65ページ。末広さんが会長を務めた西区のとき印刷で200部発行した。残部わずかだが、希望者には1部500円、送料200円で分ける。とき印刷☎082(962)5741(森田裕美)
(2024年12月4日朝刊掲載)