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[ヒロシマドキュメント 1945年] 12月上旬 学徒遺品 焼け跡で続々

 1945年12月上旬。被爆4カ月を前に、広島市土橋地区(現中区)の焼け跡の一角に、建物疎開作業に動員されて原爆に遭った中学生や女学生の遺品が祭られていた。2日付の中国新聞に現地で手を合わせる人たちの写真が載った。

 8月6日、付近には広島県立広島第一高等女学校(県女、現皆実高)や広島市立中(現基町高)などの生徒が動員されていた。爆心地から約800メートルで、おびただしい命が奪われた。3カ月余りたって町民が焼け跡を整理すると、遺品が次々と掘り起こされた。

 「洋服、靴、鉢巻、手袋、靴下、防空頭巾、帽子、財布、パス入れ、手帳など」(以下、2日付記事)。手帳には「勉強するは何のためか、陛下の大恩に報いるため」と書かれていたという。町民により、草花やミカンも供えられた。

 県女の被爆状況を伝える「皆実有朋百周年記念誌」(2001年刊)によると、生徒は作業前に制服から作業着に着替え、他の荷物も一緒に並木の陰に置いたため、焼け残った例があった。1年の森脇瑤子さん=当時(13)=の夏服や防空頭巾、救急袋の中身も現場で見つかり、学校から遺族に渡された。

 「明日から家屋疎開の整理だ。一生懸命がんばろうと思ふ。以上」。8月5日の日記にそう書いた翌日、原爆に遭い、夜に収容先で亡くなった。夏服や防空頭巾は長年家族が保管し、兄細川浩史さん(23年に95歳で死去)が18年に原爆資料館へ寄贈した。長男の洋さん(65)=中区=は「遺品を通して祖父母や父の心の中に瑤子さんが生き続けていた」と話す。(山下美波)

(2024年12月5日朝刊掲載)

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