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連載・特集

歩み 被団協ノーベル平和賞 <6> 遠隔地の運動 「知られたら生きていけん」

潜む被爆者 捜し支えて

 「被爆者だと知られたら、ここでは生きていけん」。金沢市に暮らし、もう50年になる西本多美子(84)は、そう言われたことがあるという。2022年春に解散した「石川県原爆被災者友の会」の最後の会長。自らも広島の被爆者だ。

冷たい目 陰口も

 金沢市でかつて、県外出身者は「遠所者(えんじょもん)」と呼ばれた。「保守的な土地柄。ましてや被爆者に向けられる目は冷たかった」と西本は言う。「あの人、被爆しとるんやよ」。そんな陰口をたたかれ、わが子の縁談が破談になった人もいる。「ここの被爆者はみな、隠れるように生きてきたんです」

 広島と長崎を遠く離れた地にも、1956年の日本被団協の結成前後に続々、被爆者の都道府県組織ができた。石川県の友の会もその一つ。60年8月の結成式には二十余人の被爆者が集まった。

 初代会長は日本被団協の代表委員も務めた岩佐幹三(20年死去)。16歳の時に広島市富士見町(現中区)の自宅の庭で被爆し、炎が迫る中、家の下敷きになった母と泣き別れた。学徒動員されていた妹も見つからないまま。原爆を憎み、金沢大の教官になった53年から現地の被爆者を捜し歩き、同志を募った。

 「草の根の運動の広がりが大きな世の流れになり初めて国が動き出す」。63年、被爆者援護と原水爆禁止を求める全国行脚に参加。64年、被爆者に科学者と宗教者を加えた三者懇談会を発足。65年、広島原爆病院(当時)に被爆者を派遣…。西本も74年、夫の転勤で金沢市に移ると岩佐を支えた。その原点も広島にある。

 4歳の時、段原末広町(現南区)の自宅で閃光(せんこう)を浴びた。一緒にいた母をはじめ一家全7人が被爆。命は助かったが、家を失い、基町(現中区)にできた公設の木造住宅に48年に入るまで、家族は親戚の元に分かれて身を寄せた。

 保険会社に勤めていた23歳の頃、友人に誘われ、原水爆禁止の署名を集めに市内の家々を訪ね歩いた。親のいる自分と違い、爪に火をともすように生きる孤独な被爆者たちの姿に衝撃を受け、運動に関わり始める。

 入市被爆者の夫と結婚後、転居を重ねるうちに今度は被爆地内外の温度差に気付いた。特に石川県は太平洋戦争中に空襲を受けた回数が全国で最も少ない県とされる。「だからこそ、戦争の悲惨な実態を伝えないと」。西本は潜むように生きる会員を支え、被爆者健康手帳の申請などを世話しながら、国内外で証言も重ねてきた。

団体解散相次ぐ

 だが、老いにはあらがえない。70年代に約240人いた県内の被爆者は解散時、56人。他県でも10団体が閉じたり休止したり。広島県被団協(箕牧(みまき)智之理事長)の地域組織も相次ぎ活動が立ちゆかなくなっている。「実動できる者がいないのだから仕方ない」と自ら石川の会を閉じる決断をした西本は言う。

 ただ全ての営みを絶やしたわけではない。金沢市内の原爆慰霊碑前で毎夏、追悼の集いを営み、県庁で原爆展も開く。実行委員長は西本。生活協同組合や反核医師の会がメンバーに名を連ねる。

 ノーベル平和賞授賞式に合わせノルウェー・オスロに赴く。現地の市民は被爆証言を待っている。「命ある限り、私は語り続けますよ」=敬称略 (編集委員・田中美千子)

(2024年12月6日朝刊掲載)

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