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[ヒロシマドキュメント 1945年] 12月6日 爆心直下 島病院で慰霊祭

 被爆から4カ月の1945年12月6日。爆心直下の島病院(現広島市中区の島内科医院)の関係者たちが、壊滅した病院の跡で慰霊祭を営んだ。原爆投下時に病院にいた職員や患者たち約80人は誰も助からなかった。

 「當(とう)病医院は爆心地点に當(あた)りたるを以(もっ)て 原子爆弾炸裂(さくれつ)の瞬時 凡(すべ)ての生霊 天に帰したるものならん」。院長で外科医の島薫さん(77年に79歳で死去)が吊詞(ちょうし)(弔辞)を読み上げ、犠牲者を悼んだ。和紙に毛筆でしたためた現物を、長男一秀さん(90)=中区=が受け継ぐ。

 島さんは、手術のため出かけていた広島県甲山町(現世羅町)から原爆投下翌日の午後に病院跡に戻り、職員たちを捜し歩いた。「余は諸氏の生を信じ餘燼(よじん)の中に立ちて幾度か諸氏の名を呼べり 然るに答ふるもの一人として無し」と弔辞に無念の思いを込めている。

 妹夫妻で近くで小児科を営んでいた若井均さん=当時(47)=と松香さん=同(38)、次男の広ちゃん=同(4)=も命を落とした。12月2日付の中国新聞に「島病院若井小児科合同慰霊祭」の広告を載せ、関係者の参列を呼びかけていた。

 「誰か涙無くしてこの惨禍を打ち眺め得るものぞ」。尽きぬ悲しみを述べた後、生き残った者の決意で結んだ。「この未曾有(みぞう)の國難(こくなん)に接し、我等(われら)國民は勇を奮いて再建日本への努力せざる不可ず」

 島さんは医師として救護活動に当たるとともに市会議員も務めていた。この日、木原七郎市長が10月22日に就任してから初めての市会もあった。(山本真帆)

(2024年12月6日朝刊掲載)

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