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[ヒロシマドキュメント 1945年] 12月上旬 市役所安置の遺骨 寺へ

 1945年12月上旬。引き取り手がないまま広島市役所に安置されていた原爆犠牲者の遺骨が運び出された。当時の中国新聞によれば、名前や住所不明の遺骨を含む約6千体が己斐町(現西区)の善法寺に移った。

 爆心地から約1キロの国泰寺町(現中区)で焼け残った鉄筋の市役所は、被爆直後から引き取り手が分からない遺骨の安置所になった。2階の市長公室は、遺骨を納める箱が山積みだった。

 市は、行方不明者の相談係も設置。受け入れた約9千体のうち約3千体を11月17日までに遺族へ引き渡した。同日で引き渡し事務をいったん打ち切る方針が本紙で報じられたが、家族の遺骨を捜しに訪れる市民は絶えなかった。税務課の女性職員が読経を続けた。

 ただ、安置し続けるにはあまりに部屋が損傷していた。12月に助役に就いた浜井信三さんは、ドアも窓枠も失った庁内の冬をこう記す。「市長室にも助役室にも、吹雪がまっ白に吹きだまった」「暖をとる木炭もなかった。焼け跡から拾い集めた木切れを燃やすので、庁内はどこも煙でいぶり、まっ黒になった」(67年の著書「原爆市長」)

 市は遺骨の引き渡しを続けることにし、捜す場合は善法寺を訪ねるよう呼びかけた。また「遠からず戦災死亡市民の霊位塔を建設して合墳する」(11月7日付本紙)との考えも示した。遺骨は今の平和記念公園にあった慈仙寺跡にも大量に集められていた。

 12月25日付本紙に、こんな投稿が載った。「私はこの遺骨や犠牲者を慰めるために供養塔(仮称)の建設を提唱する(略)また8月6日を毎年広島市の罹災(りさい)記念日とし、これらの霊を弔ひ、平和への祈りをささげることは意義深いことと思ふが如何、広島市民の心の復興は朝夕香華の絶えぬ供養塔から」。年が明けた後、具体的な動きが生まれる。(編集委員・水川恭輔、山本真帆)

(2024年12月8日朝刊掲載)

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